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人はなぜ嘘をつくのか。その理由はさまざまでしょうが、嘘は、基本となる構造が作られて来ることで、私たちが現に知っている「嘘」の現象となることができるのです。
その構造を知れば、嘘に対してうまく対処することができるようになって来るでしょう。

まず、嘘とは「偽りの態度」を見せることにある。
人によっては、自分の嘘をそれと知って使い、また人によっては自分の嘘に呑まれてしまって、本気で自分を表しているかのように言える人もいる。
それらも、「自分の態度」の問題として、私たちが関係するおもての態度となって表れて来るのです。

嘘は、自分が何かの意図を伝えようとする時に起こる。それが嘘と知って言って来る人もいれば、気づかないで嘘を言う人もいます。
自分の嘘に気づけるかどうかは、自分の人生への注意力にかかって来ているのでしょうが、結果として、作られて来る嘘の構造には違いは生じないと考えられます。

なぜなら、嘘は本当の表れを隠すもの、本当に見えて来るものの替わりに、偽りの表れを見せて来るものですが、その偽りの本質は、本当の表れから目をそらさせるための、都合のよい「広告塔」を自ら作り出すことにあるからです。

自分に見せたくないことのある人が、嘘をつく時は、本当の自分の替わりに、見栄えのよい偽りの自分を作って見せようとします。
自分が自分を隠すための、見栄えのいい「広告塔」になって表れることです。
そのことによって、見つかりたくない本当の自分は隠されることになる。

ここに嘘の基本構造はあります。

見せるための「広告塔」による偽りが、自分を隠すのです。
悪いことをした子どもが、怒られないで済ますために、理想的なことのできる自分を一時的に作って、やり過ごそうとするような、わかりやすい例はまさに典型です。
大人になってつく嘘でも、この構造を使うことに変わりはありません。

嘘の基本は、見せたくない自分や見せたくないことの替わりに、自分が見せたい仮の「広告塔」を作って、それを見せることにある。それは、本当の自分を見ないで、「こっち」を見てね、ということです。

本当に表れて来るものを見られたくないので、見せるための「広告塔」を作って人の目や関心を引きつける。
これが嘘として表れるものの基本的な現象なのです。

そのことによって本当の自分、本当の姿は隠される。つまり、偽りの自分を広告塔に使えることで、そっちに周りの目を引いていられるかぎり、悪い自分を見せなくていい。つまり、本当の自分が見つからなくて済むのです。

怒られる時の恐れが深刻なほど、嘘をつく人は、いよいよ「本気」で嘘を頼ることでしょう。

偽りの広告塔としての自分が、決して偽りなどではなく、あくまで本当の自分だということにしてしまいたい。
本当に「広告塔」としての理想化された自分が自分自身として認められたなら、恐れていた「罰」や評価の失墜などを避けることができる。
だから、嘘に頼るしかない人は、とことん、広告塔としての自分と「偽りのない関係」を築こうとしますし、果てには周りの人間にも「広告塔」の通りの自分として見ねばならぬことを脅迫するように迫って来ることもある。

この「広告塔」による偽りが成功しなければ、避けられたはずの恐れが本当にやって来る。だから、それから逃げるために、あらゆる嘘を総動員する人もいる。
そうなったら、もう理想の体裁だけで人をだますことを辞めてしまって、悲劇のヒーロー的な被害者を演じたり、逆に加害者にまでなってしまっているという「次の広告塔」を用意しなければならなくなる。どっちみち、「こっち」を見てくれ、ということです。
それが、そらしであることにかわりはありません。

いうまでもなく、責任感のない人ほど、こういうことをせっせと本気でやります。というより、普段から見せるための「広告塔」になりきって生きているようになる人は、ほとんど本当のものごとには興味がない。
そうした態度をする人はいくらもいるでしょう。
大人でも、こういう精神状態になる人は、いくらも見ることがあります。

ここでは、嘘の構造を、その基本として理解し、ろくでもない嘘に無益に翻弄されないようになることを意図して、その構造を解説しました。

実際の世界には、嘘と無縁な人はいないでしょう。
だから、それについて、一概にいい悪いは言わないでおきます。

しかし、破滅的な嘘によって、私たちが本当に守るべきものが無くなるようなことになるなら、私たちは、たかが嘘のために大事な人生を失っていいわけがないという、原点に立ち返るべきでしょう。

人間は歴史を持つ者です。
自分の歴史性による関係の線があることから、真の自分は表れて来る。

自分の歴史が自分自身の生き方の正体を作っているのです。
しかし、嘘は「点」でしかない。

どれだけしがみついて点の嘘を主張しても、生き方の流れを替えることなどできません。
いくつもの点を集めて、あっちへこっちへと飛び移るように嘘はつけても、「広告塔」の嘘は、しょせん思いつきです。
何も根拠のあるものを持ってはいない、偽りの広告塔に過ぎない。

いい見せ掛けのものだと飛びついたものに過ぎない。だから、しっかり事実と付き合って調べれば、どれほどもなく簡単に偽物だとわかります。
あるいは、たいはんの嘘はそんなものです。
そんなものを過信して、信じ込まねばならないようなかわいそうな人たちもいるわけです。しかし、そういう人たちは、まず自分を忘れてしまう。だから、どんな卑怯な嘘でも平然と言えるようになる。いやそうなったら、嘘をつくことが何よりの「幸せ」の実感である人もいるのです。

愚かさが、もう愚かさとはわからない。
だからこそ、使える広告塔の思いつくかぎりは、「いい子」のふりもしてしまいます。
下劣な誹謗中傷に、終わらないなすりつけ、自分がいい目に会おうと立場のすり替えも当たり前。それだけやっても「いい子」の自分を見せたのだから、信じ込めと言って来れるのです。

一番目につく「広告塔」が、嘘の役目を果たせるものとなるのです。
だから、不相応にやたらと偉ぶって見せたり、自信に満ちているフリをするなどは単純なところですが、逆に、泣きマネをして見せて、その場の同情を引き込もうとするのも「広告塔」の効果を知った場合の一番わかりやすい手口でもある。
こうした手口は、自分が「広告塔」になりきれるという点で、自分が自分の嘘に「呑まれて居られる」という一つの安心感を手に入れられるという性格も持っています。だから、誰より自分が自分の使う嘘にひたって居られる。
そうした極端な二つの嘘を平然と繰り出す者も居ますが、そうした者は、やはり人の気を引ければいいという漫然とした嘘慣れした意識が普段からも強く滲み出ています。
そうしたことが当の自分が使う嘘だと自分で意識していることは、なくなるようになっていて、逆に、自分の方が何もかもに正しく接していたかのように演じ出すのも、次の「広告塔」にならなければならないことの方を瞬時に悟ったからです。
嘘の「点」で世の中を渡って行こうとする者は、次から次へと嘘の点を作り渡って行かなければならない。それだけのことです。だから、恥を感じるべきところを、逆に誇って見せたりする。

うそに呑まれているから、もう自分がうそを頼っていることをはっきり感じられない。
そのくせ、うそをついている者の「感じ方」は変わらないから、うその中に生きていることの感じ方は変わりません。

そういう者が、なすりつけを好むのは、自分自身が嘘のために生きていることに喜びを感じるほど関係の生産性が逆転しているからです。
嘘やなすりつけに頼るほど、その先には破滅が待っている。そのことが見えなくなっているのです。

こういう人は、自分のうそに奉仕するように生きていて、それが自分でもやめられないのです。しかし、やはりそういう人は、自分が一番人生をコントロールしているという嘘をつく。こういう破滅的なことが止めれないのです。
(このことの背景をよりよく知るには、「思考の起源」の記事をお読みください。)
結局、嘘と自惚れは深く関わっているものです。

やめられないかわりに、まだそうやっていられるように、自己保全のための嘘をかさねて行く。

だから、悪さもなすりつけも、自分ではもうやめられません。
当然のように、自己正当化のためのキレイごとを頼ることもやめないのです。
こうした人も負けず嫌いなので、相手の弱みを足蹴にするような「できた広告塔」を演じたがる。

徹底した汚さが、生きるここちよさになっている者は、見たくなくても見つかるものです。しかしこうした者は、見つかったら、見つけた者のせいにしようとする強い衝動を持ちます。自分の嘘に同調しない者は、危険な敵だからです。
これは、仲間意識にも通じます。自分たちの側に属さず、自分たちをあばく危険な者には同じ敵意を抱き、同じように攻撃しようともする。
嘘つきの同調ほどすぐ結託するものはありません。

同じように、その自分を見せていることを認めることは決してしないようになるものでもある。うそ慣れすることの単なる結果なのですが、これも気が合う仲間内通しでは自動的に同調し合うことができる。嘘の持つ意味は、さまざまな意味合いの中でも一番単純な部類だからでしょう。
ここまで見て来た嘘の構造論で見るなら、それは明らかなことと言えます。
つまるところ、広告塔が持つズルさの意味に気づけばいい。
現実には、嘘は他の実直な関係とも折り重なっているので、嘘だけに流される人は幸いあまり多くはありません。

うその現象には、逆の作用もあります。
たとえば、ある場合に、あまりにでき過ぎたような話しは、真実を伝えていてもうそっぽくなるということがある。
うその一般的な現象と似てしまっているからなのです。
偽りの広告塔のように見えてしまうので、恥ずかしくなくても恥ずかしく感じてしまうことがある。
私たちの前に表れる嘘とは「現象」からのものなので、こうした嘘と真実の逆転現象も起こって来るわけである
ただこうしたことには、とくだんこだわる必要はないでしょう。むしろ、嘘をつく人のかっこうのそれっぽい理想の隠れ家に使われてしまうのがせいぜいだろうということもあるからです。
うそ付きの偽りの広告塔にとって、一番おいしいことは、一番のそれっぽさに紛れ込むことだから、そうしたことが何より嬉しさを感じてしまうことでもあるのです。
まともに生きようとする人にとっては、どのみちどうでもいいことだろうと思います。
のめり込むことでないのは明らかだからです。
だが、うそに悪用する人は、「うまくのめり込むこと」から、またうその続きを繋いで来る。バレたらバレたで、またバレていないところで同じうそをつきはじめる。結局、こうしたことが好きなのです。認められないのは、認められないだけのことでしかない。

こうしたことを見るかぎり、悪用するなら許さないということだけが伝えておくべきことになるのです。うそをつくことが、人の迷惑になること、誰をも破滅に追いやることを肝に据えることからです。

そして、世の中には、やっかいな「事なかれ主義」もある。それを一番利用しなれているのが、卑怯な「広告塔」使いです。

しかし、「事実」は歪曲を受け入れません。私たちが正常な精神で生きるには、そして生きていて良かったと、思いつきでなく言えるためには、事実と近い関係を基盤に据えなければならないでしょう。
困った時に頼るだけのものではなく、普段から事実に触れて生きることで、ただの「広告塔」には太刀打ちできない力強い生き方が備わって来ます。

そして、事実とは、言い換えれば歴史です。いくら事実と関わって来たかで、私たちが生きる軸線は、より力強くなる。
その当たり前の生き方ができた者が、見せ掛けの「広告塔」の醜さも見破り、本当の表れの美しさも復活させることができるのです。

嘘の見せ掛けとは、どれほどの「広告塔」のつもりでも、その正体は、現実にとっては「歪み」や「ひた隠し」でしかないからです。それらは、いつも、私たちの「表れ」を隠すためにある。

しかし、嘘の構造を掴めれば、こんな単純な騙しにムダに動かされることもないのです。
価値ある人生なら、事実の側から動けばよいのです。だから、相手を選ぶこともできるのです。