「嘘」とは、自分で偽りの広告塔を作ることにある。そこに、人の注意を引きつけておこうとするのが、嘘であった。
だから、嘘をつく者は、自分で偽りの「広告塔」になりきるのである。
それは、自分のためにつく嘘なら、自分を周りの視線から守るために、自分を理想像のように見せたり、害悪とは関係してない人間に見せたりすることに使われることでしょう。
また、わざと失敗をする役回りをして見せることでも、一つの隠された位置付けを掴めることになる。立派さを演じるだけでは息苦しいので、自ら楽な位置に降りることに通じているのでしょう。しかも、楽をしながら、その自分が周りのお手本を示して見せようという、さらに隠されたお楽しみを忍ばせておくこともできるのです。
なぜから、偽りの「広告塔」は、自分にとっての理想像が見つかるなら、それだけでもう目当ての姿になるからです。
これは、自分から、自分の理想像に向けての「嘘」の使い方になるものです。
それを、他人に向けて使うこともできる。
その相手が、自分にとって都合の良い相手なら、自分の側につけようとするために、嘘も自分が使うものと同じようなものにして、いい関係を作れるようにしようとすることでしょう。
逆に、ある相手が自分にとって危険を感じたり、さらには許せない相手に見えた場合には、嘘で攻撃に出て来ることでしょう。
その方法は、やはり同じく偽りの「広告塔」を使うものとなるのです。
嘘の基本は変わりません。
人をバカにしたり、苦境に陥れてやろうとして使う理屈も、それが嘘である以上、偽りの広告塔を使ったものとなるのです。
人をばかにする態度には、相手のフリをして見せるものがあります。
ようは、相手に「なりきっている」ことが、すでに侮辱の意味を示している手口がありますが、これは、嘘の広告塔が求める「なりきり」感覚が起こす使い道の違いということに、嘘の構造に表れる本質的な関係の意味合いを持っています。
それは、「広告塔」のできの良し悪しを比べて見せるということに本質の違いがある。
自分用の「広告塔」は、立派なものを使うから、嫌なもの、でき損ないのものは、自分にとって嫌な相手のものとして使うということになっている。
そのことで、「広告塔」の使いわけをしているわけです。
実は、それを構造的に可能とするものは、嘘の「広告塔」を使った後の、関係の保存感覚です。
ようは、嘘をついて、自分のやったことはうまくいったと思っている。そのことで、これからもうまくやって行けると思いなすようになる。こうした自分の関係感における保存感覚が、自分用の立派な「広告塔」は自分のものとしておさえておかれ、嫌いな相手用のものは、不出来でそのために「通用しない」、ダメな広告塔を押しつけて行くという、そのおおもとの感覚を作っているのです。
やはり嘘は自分の関係とその感覚から始まる。その嘘のために、自分のものとなった出来のいい立派な「広告塔」は、ちゃんと自分がおさえておく。
自分にはちゃんとした立派な「広告塔」が用意されているのに、あの嫌な相手の「広告塔」はぜんぜん立派な「広告塔」には見えないよ、ということを、同じ偽りの「広告塔」の使い方で見せているわけです。
それが、おちゃらけて人のモノマネをして見せることで、バカにしたい相手を笑いものにする手口に、明確に見える構造となっています。
こういうことで人をバカにする人が、自分の言葉にはできないが、それでいて本当に伝えたがっていることは、自分はもうこんなに立派な広告塔で守られるようになっているのに、「アイツはまだこんなにみっともない「広告塔」しか使えてないよ!」、と言った具合のことです。
自分の嘘に埋没して生きている感覚の中では、それが嬉し過ぎてバカ笑いができるのです。
無論、自分の嘘に埋もれて生きているような人には、自分が何をやっているかなどはわかりません。
それどころか、虚構に過ぎない「広告塔」の力を信じ込むあまり、自分の方が人より偉いと思いなすようになっていることで、偉そうに相手に指図を出して見せるようになっていることも多い。
だから、自分から好きこのんで「もめ事」を起こしておいて、さらに、オマエがとにかく悪い、「オレから見てよくできてないように見えるオマエが悪い!」というような、理屈を踏み越えた言い分をつきつけていって、とにかく自分の気が済むようにだけ話しを繋げてやろうとする態度が抑え込みようもなく出て来ることもある。
そうなると、もうまともな人間の態度とは間違っても言えなくなりますが、嘘を頼り切る本人は、たいてい誰より立派なことができる、できている人間のつもりになっています。自分の言い分が通用すると思って居られるかぎりは、決して自分の言い分は曲げようとしないものです。
それだけ、自分にとっての嘘の「広告塔」になりきっている、その嘘でしかない「広告塔」の力がどこまでも通用すると信じ切っていることの、現実の態度に出て来た本心の表れだと言えます。
こういう人は、自分の嘘には気づかない。自分の嘘が心地よくて埋没しているのだから当然です。
しかし、同時に嘘は嘘。
あっという間に醒めてしまう現実の脅威といつでも背中合わせの、幻想もどきの幸福主義でしかありません。
どれほど偉ぶっていても、自分がバレたら困る偽物でしかないことを、いつでもその自分の背中合わせの感覚として持っているのです。
そして、現実の脅威がやって来た時には、やはり手の平を返してコロコロと態度が変わる。
こういう人は普段からそうなので、見ていたらわかります。
そして、こういうことが一番わからないのが、当の本人です。現実の脅威がやって来て、現実は嘘つきには甘くないということが肌で感じられるまで、自分の運命を見ることができません。
実は、自分の運命なのだから、恐れは普段から感じているはずです。それが嘘に耽溺するとマヒしてしまう。
しかも、嘘の構造の中では、その感じ方の中で、すぐヒトゴトと感じてしまう。
偽りの「広告塔」に頼って生きることは、結局は、誰よりも自分自身を騙すことなのです。
本人は、自分こそがかしこい人のつもりになっています。それは、どれほど嘘が見つかって怒られて来ていても、すぐまたそうなってしまう。嘘の生き方が変えられないからです。
むしろ、愚かさの見本と言えることですが、人は、自分の幸せと見るや、しがみつくものです。
しかしこれは、幸せとしても偽物です。
いくら手の平を返しても、そのどちらも偽物であることも見抜かねばなりません。
なぜなら、「広告塔」の嘘は、しょせん、たまたま手に入った「広告塔」の嘘を、自分を隠せるだけ使うものに過ぎないから、その場しのぎに手を出す性格のものに過ぎない。
悪い意味で、流れに任せた人頼みだからです。
また、自分を裏切って生きている者は、人も平然と裏切ります。仲間だって裏切る。
これも生き方が偽物だからです。それを何とも思いません。どうせまた、何か適当な言い分をだしに、「広告塔」の力でやって行けばいいと感じてしまうのです。
「嘘慣れ」した生き方の悲劇と言えるでしょう。ただ懲りない姿は反面喜劇とも言えますが。
しかし、まともに生きる人は、何より守るべきものを守ることを考えるべきです。
嘘と自惚れの「広告塔」で自分の活路を開こうとする人たちは、バレないなら何でもしてやろうとする意識が止められないので、何をしてくるかわからないところがある。自制心が希薄化して、すぐ暴力を奮って来る人にもこういう人は多い。
ただのカッコつけのために何でもできる人たちです。
ただ、この人たちは、自分が頼ろうとする権威には弱い。すぐ手の平を返すというのも、そういうことからのことです。
つまるところ、いい加減な人たちとの、うまい関わり方を考えても、社会の力がいつでも降りて来るところに要るのがいい。
それが最適であり、それがないと危険です。
逆ピラミッドの生き方を使えば、自分だけが苦労や負担を背負わされて生きなければならない環境からは簡単に脱することができます。
それは、社会の方が動き出すからです。
その力をうまく使おうとして行くことで、社会の方が協力しなければならないことを知り出すのです。