人は、色々な場面で「はったり」を掛けて来ます。
自分が掛ける場合もあるし、掛けられる場合もあるでしょう。
なぜなら、人の世はすでに「はったり」で溢れ、自分自身も周りのやり方や勢いに合わせられないと、生きて行けないのが現実だからです。
この「はったり」とは、次の予想がつかないのに、まるで結果が約束されているかのような態度を取ることです。
「はったり」は、一つの嘘ですが、単なる嘘というより、一時的な嘘であることを、場面の流れの中で示していると思います。
しかし、嘘はもともと「点」なので、はったりも、一つの嘘の表れに過ぎないということはある。
ようは、「はったり」の背後に何があるのかは、その人次第だということになります。
「はったり」ばかり掛けて来る人は確かにいます。そういう人は、やはり普段から嘘に頼って生きているということになるでしょう。
逆に、めったに「はったり」など掛けようとしない人もいる。嘘をつきたくないからだと想定できます。
ところで、嘘は「現象」なので、相対的なところが強い。
それというのは、自分の正体を見せようとしない偽りの「広告塔」となった者の表れは、初めからものの見方に依存しているからです。
それは、こう見れば良いという、その見方を持ち込むものなので、あるのはそこにある見方だけ。それはまさに作られた関係の「点」です。いわば「点」が浮いているだけです。
だから、別の角度から見れば、簡単に別ものに見えて来る。
それを、嘘をついた本人にも、どうにもできません。
嘘がうまく通れば、見せ掛けだけでだませる。
しかし、色々と調べられれば、やはりバレてしまう。嘘の運命です。
「はったり」も同じことでしょう。
ただ、「はったり」が役に立つことがあって、それをある程度大勢で支えると、見掛け上は本当のこととして通ってしまう。そのことで、急場がしのげるということはあります。
ただしかし、いつも急場になっていては、何のためにしのぐのかもわかりませんが。そういうさまざまな現場があることは、私も知っています。
そして、現実のやりとりでは、そうした「はったり」を交えた話しをしていかざるを得ず、その時に、「はったり」が強く持つ性質が、相対化しやすい、ということです。
そもそも、「はったり」は、約束にとって意味がある。
約束されたものにとって、「はったり」がうまく行ったかどうかが決まるのです。
そして、現実には、約束にはさまざまなレベルや層があるので、約束の内容や方向性も色々と絡みあいがあります。
その中で、一つの約束から見ると、それとは別の約束が嘘に見えてしまう。そういうことは多々あります。
すでに約束された状態がしっかりできているように見せ掛けてあったものが、実はまだまだ取り組み中であるという時、これからやって行こうとする本当の取り組みの方が、嘘に見えてしまう。あるいは、嘘の扱いになってしまう。
あくまで、しっかりできているという立場を崩さないならです。
もちろん、現実の取り組みから見れば、もうできていますといった態度の方が嘘ということです。
これも、前提になる約束の側から見て、嘘になるということです。
本当のことにしてあることから見ることで、嘘がバレたり、本当のことが嘘になったりするように見えることになる。
この見え方が、相対的な性質になっているのです。
これは、「はったり」というものを崩せない現場にいると、よく感じるものです。
これを個人に転じると、現実より、自分に都合のいい「はったり」の世界を作って生きている人の内面を知ることにもなる。
嘘が高じて、妄想主義の癖が強くなると、嘘の道をみずから敷き詰めるように、生きて行こうとする者が出て来る。
当然、嘘は点なので、本当の道は、繋がらない。
だから、いくつもの点と点を繋げ、渡り歩くことになるが、当然、なりすましの「広告塔」に過ぎない生き方では、単に周りに甘え、わがままで生きようとしているだけです。
わがままにはまってしまうと、いよいよ周りが見えません。自分が偽りの広告塔であることを、本気で忘れていられるのは、誰よりも本人です。それが、わがままの本性というものです。
それで、自分はどこまでも行けると思うようにもなりますが、それが現実から見れば、明らかに妄想主義に陥った結果だということなのです。
偽りの広告塔になりきって、広告塔の使い分け方にだけひたって生きていられるのが自分だと、当の自分こそが一番気づけない。その理由は、単に自分の使い道は、良い広告塔だけと決めてあるからです。
勝負に勝てる自分、勝負に勝つために負けて見せられる自分、威張りちらせるすごい自分に、下手に出ても相手を手玉に取れる自分。これら、すべてが見せ掛けの広告塔として演じられます。
しかし、「はったり」に我を忘れ切るような者は、すべて見本を追っかけた偽物サンプルに過ぎないことには気づかない。
いい広告塔で居続けたいがために、決して気づけないのです。
嘘の「はったり」主義は、現実を見失い、一つしかない自分の人生を忘れ、「はったり」を頼っているだけの立場取りゲームのような生き方の中で、正体がバレないかぎりの勝負を繰り返すものとなってしまう。
本当の現実がないので、自分のやっていることは認めず、追い詰められても認めて見せられる自分になりきって救いの道に入ろうとするだけです。
そして、現実は忘れっぽいので、追い詰められたこともすぐ忘れてしまう。
そして、すきあらば、また威張りちらせる道に猛ダッシュして行けるようになる。そんなものです。
現実はないので、その生き方は、人のうらやましいあり方との、立場替えに終始するものとなる。
「はったり」の急場しのぎが人生そのものになってしまっては、何のための人生なのか、ということになるでしょうが、一番疑問を懐かず、ひたすらまやかしに満ちた羨望と怨みの衝動につき動かされるだけなのが、急場の「はったり」主義のために何でもできるような人たちです。
当然、人の迷惑や危害などを、何とも思うはずがありません。
ただ急場をしのぐために、わかっている「広告塔」にはなれます。しかし、騙せた、と思えばすぐやめてしまうものでしかない。それどころか、騙せたことを自慢気にできることもさっさと見通しているでしょう。
そもそも、そういう生き方なのです。
生き方は、生き方自身が作るもの。
普段からしっかり見ていれば、おのずとわかって来るものでもあるのです。
自分の人生、生き方に手を抜かなければ、意外なほど簡単にわかって来ます。
社会の力を頼るのと、自分の力で生きて行くことは、両立できます。
むしろ、それが可能でなければ、まともに生きて行くことはできないでしょう。
それを可能にするものが、逆ピラミッド力学にはあるのです。