世界を変える、世界は変わる。
リアルプレゼント第2回
結果から言うと、生物である人間には、いじめの問題がどうしてもなくなることがない。
それは人間には知恵があるから、どうしても自分や自分に都合のいい集団だけが特をしようとするズルい知恵が働くようになるからです。
だから、「いじめ」をする人には、それが当たり前だという気持ちが働く。自分本意の気持ちにとっては、本当にそれが当たり前だからです。
だから、原始的な意味にとっては、いじめをするのは当たり前だというのが「正直」な気持ちとしてはあることになる。そして、強気でいると平然とそういうことを言ってくる。
「いじめ」る者にとっては、いじめられる側が悪いということになっている。
人間も生き物なので、原始的自明感としては、そういうことになるのです。
しかし、人間は社会的存在であって、社会の中では、そういうことはありのままに言えなくなってくる。だから、いろいろと言い換えやごまかしの手を使うことになる。
そして、たいていの場合、「いじめ」ようとする側は、このバレては困る自分の手口を、バレても怒られないで済む言い分や態度との、中間的な「まがい物」にして人にダメージを与えようとする。
自分が勝手に悪いことをしておいて、悪いことをされる「オマエが悪い」などといった言い分を使ってくるのも、「いじめ」にありがちな、自分本意の知恵が回っている証拠です。
こういう類の「いじめ」の手口というのは、人が知恵を使う生物である以上、終わることのない問題ということがある。
もちろん、正しい知恵の使い方でもなければ、まともな知恵の使い方でもありません。
ただ、現実の世界で生きる私たちには、こういう原始的な欲望主義が知恵の皮を被った程度のものをまともな知恵と扱うことはできない。
明らかに、これに対処しなければならないわけです。
ちなみに、まだまともでない知恵が「いじめ」をする者の変わらぬ精神にあることになると、「いじめ」にはある一つの正体があることに気づくのです。
それは、「いじめ」とは常に「甘え」の隠された表現だという本質です。
「いじめ」に使う様々な手口にしても、それをただごまかしている「いじめ」からの逃げ口上にしても、「いじめ」をする者は、常に「甘え」ているのです。
態度だけは、横柄で偉ぶっていたり、あるいはまさに当たり前だという面構えで居るとしても、「いじめ」をする者は、そのすべての段階で「甘え」ているのです。
「いじめ」は、自分はしっかりしていると見せかけて、その自分が隠し持っている欲望主義を自分本意に叶えてやろうとする、変わらぬ「甘え」の本性を持っている。
これは、いうまでもなく間違った「甘え」です。
私は、いじめの定義としては、「汚い甘えの要求」という変わらぬ本質で見るのが一番だと思っています。
残念ながら、「甘え」る人は、小さな子供と同じで「甘え」ることしかできません。
まともに生きることは「力」であって、力のない者は小さな子供のように甘えることしかできないからです。
その見せかけとは違い、いじめをする人は、自分が甘えて生きていることを隠すために、自分こそがしっかりしていると見せかけようとばかりする。
「汚い甘え」は、汚いウソばかりです。
いじめに頼る者は、まだ、「甘え」に頼ることしかできない段階の人たちだからです。
だから、こういう人たちに合わせていても、いつまでたってもまともな方向に向かうことはないし、逆に、甘えるしかない者は、本当はまともな「力」をあてにしているので、その見せかけとは逆に、いじめた相手の力を手に入れようとしているのです。
「いじめ」ている相手の持つ力をあてにしているから、やってくるようになるのだし、いつまでもたかってくるのです。
人に、汚い方法で甘えるしかなくなった人というのは、ある時から急に「いじめ」に転じる人も含めて、そうならざるを得なかったかわいそうな側面を持ってはいる。
しかし、そうした方向に深入りするのは間違いです。人の内面の問題には、安易に踏み込むべきではありません。
私たちには、自分たちに必要な力をつける道筋が必要です。
自分のレベルが上がることによって、すべての問題は解決して行く。
極論を言えば、下を見ていても仕方がないのです。上を目指さなければならない。
そして、このリアルプレゼントは「いじめ」の対処法を覚えることで、現実を健全な積み重ねのできる「力」をつけられる生き方への構えを取れるようにするためのものなので、「いじめ」は問題として取り上げて行きますが、「いじめ」る者の問題を肩代わりして解決してあげるようなことには手を出しません。
これも現実の厳しさの一つです。
「いじめ」るだけでこの現実を好きに生きていけるようになるなど、そんな甘い話はありません。
私たちは、自分たちが上がって行けばいいのであって、「いじめ」をする者には、適正な処罰があればいいのです。
むしろ、そうしたことをきっちりすることが、「いじめ」への正しくて簡単確実な対処法と言える。
しかしそう簡単には話しが進まないのも、私たちの現実の厳しいところです。
なぜなら、甘える人は、自分の欲望主義のためにごまかしばかりする。
そして、その自分が甘えるために、底が抜けたような甘え方をして来ます。何をやっても自分が甘えることが正しいからです。まさに、汚さを意とも介さない態度です。こういう人たちには、まともな言葉は通じません。
それどころか、バレて気まずい思いをした分だけ、いじめをする相手にすべてすり替えてなすりつけようともします。
嫌なことをぜんぶ背負ってもらいたいというのは甘えだからです。
何をやっても、決して自分のこととは考えない人。それが甘えの人です。
甘えの人には、責任感がありません。
最初から甘え切ってやろうとするのが、「いじめ」の背後には必ずある意図です。
リアルプレゼントは答えて行きます。
私たちは、自分が汚い人間になる必要は全くありません。
いじめに限らず、自分の責任を取らず、甘えてばかり居ようとする人たちの相手をする必要はないのです。
別に義務はないのですから、当たり前です。
逆に、いじめをする人は、義務があるかのように見せかけようとするので注意が必要です。
自分がしなければいけないことでも、人に替わりにやってもらおうとするのが甘えです。
最初から甘えてやろうとしたガチガチの態度でやって来ます。
そうした場合でも、相手がどういう人間かを見極める観点は、自分の責任を本当に取っているか、自分の役割である仕事をしようとしているか、が本質的なカギになります。
そして、自分がすべきことをするためには、誰に対しても、「わかってあげる」という態度が、何より強い武器になります。
一見、相手を受け入れているかに見える態度が、不正を平気でやる相手にも武器になる。
それは、何より誰に対しても同じ態度を取っているという常識的態度の強みです。
単に常識的な態度を取っているのに、それについて文句を言われる筋はありません。
文句を言う方がおかしいのです。
このように、普通の態度を取ると、普通の人なら普通に良好な関係で済む。ところが不正を平気に甘えをしないと気が済まない「いじめ」の人は、そういう普通の会話の中でも不満になって、あれこれケチをつけて来るようになります。
しかし、どのようにケチをつけられようとも、自分が正しい義務、つまり普通の態度を取っている限り、不正の要求に応じる必要はありません。
そして、この態度を維持するから、不正の人が何を言って来ても、一切応じる必要はないのです。
むしろ、はっきりと言いますが、相手が情を引き出してとにかく動かしてこようとしてきても、何があっても不正の要求を受け入れてはいけないのです。
なぜなら、それを受け入れた途端に、こちらの義務になるからです。
「いじめ」をやっていい側についたら、本末転倒です。こちらも、いじめをする側になってしまうのです。
そうなったら、言うべきことも言えません。言えて当然のことを言えなくなるのです。
しかし、「わかってあげる」態度なら、いくら相手に同調しても、それはわかってあげただけであって、まだ同じことをしているわけではありません。
そうして話しを聞いている内に、汚い甘えをする者は、やはり当然のように、自分の汚い目論見を出して来るようになります。
そうしたら、それを証拠に、不正を指摘することができるようになるのです。
何もなければ、自分のすべきことをすれば良い。
これが賢い態度の基本だと思うのです。