主体性の力学と起源の思考 | リアルプレゼント (悩みを生きる強さにするブログ)

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主体性とは、一般的に自分で考え、判断することであると言われます。

しかし、人間には何の前提もなく自分で考え、判断することはできません。

自分で考え、判断することを可能にするためには、主体(自分)にとっての関係、 つまり自分がかかわる環境との関係を前提として考えていなければ、考える材料は得られません。

主体がもし環境との関係を持っていなければ、 そこで考えだけを持つようになることはないでしょう。
なぜなら、「主体」とは、環境の中で生きている生命のことであるから、環境の中で自分が生きる条件を手に入れていることが、主体が「考える」ことになる課題にとっても普遍の主題なのであって、そうした生の力学が生きる本質である限り、まず環境が前提されていることが、主体にとっては不可欠な、考えるための土台に立てることの基本条件になる。

もっとも、現実には、人間はいつでも環境の中に生きているのであるから、環境からの圧迫はいつも受けていて、考えたいことを考えるためには環境から逃れようとするかもしれない。
しかし、環境が前提されていなければ、 生命としての主体が存在することも、主体が考えを必要とすることもありません。

つまり、主体的に考えるということの課題は、あくまで環境を前提にすることで 見えるものなので、「主体性」を問題にするには、主体の能力だけを問題にするのではなく、 その周りの環境との繋がりが思考の目指す対象であることによって、初めて思考が可能となるのです。
つまり、自分の課題をかかえた環境に立つ主体であることが、考えを形にするための主たる枠組みであるから、「主体的に考える」ことも、実は環境にとっての課題であることが、主体的に考えることにとっての課題なのです。

ここで問題なのは、前提となる環境の中には、自分も入っているということ、自分も含めて環境だということです。

こうした環境的な力学で「考え」を始めないと、単に主体的に考えればいいと言われても、環境的な意識がしっかりできていなければ、それは単に自分本意を向いた考えにしかなりません。

そして、主体であることの意味は、自分が 「存在である」ことの意味と同じでもある。

生き物にとっては、自分がいかに生きるかが課題である以上、そこでは、環境からの力学と、自分からの力学が接点により同一化することが考えられなければならない。 ようは、その接点にだけ主体的な考えの具現はあるからです。

主体的な思考というものは、自分からの思考力学を考えるだけでなく、むしろ自分の存在する環境性から考えて行くことで、世界は見えて来る。それが、思考にとっての基本的な条件設定であるはずです。

始まりは、環境の力学からでなければ、生き物は生まれて来ることもできません。

そのことが、思考にとっても言えるということです。

このことを、あらためて「主観」の側から捉え直すと、ある主観特有の問題が見えて来ます。

主観の思考は、主観自身にとって働く「主体者の思考」なので、あくまで主体の側にある条件設定に合わせた、いわゆる独りよがりな思考におちいりがちになる「本質的な欠点」を持っているわけです。

それは、「自分から始めて、自分の都合に終わる」、主体の思考にとっては運命的な出来事になります。
これは、いくら「人のため」と考えていても同じことで、主体の側が勝手におちいる「自分の考えたことなら、うまくいく」という、主体全体がおちいる傾向のことです。

子どもの頃なら、周りがまだ充分見えないので、特によくおちいりがちになる。
自分が自分であるだけで、何をやってもうまくいくようになる、という類いの思考傾向は、環境との接点を切って行って、自分のためだけにものごとを考えるようになることで、ためらいもなくおちいるようになる、宿命的な自分本意への傾向です。

その点、人とは、しょせん個体なので、生命体としては、自分のために生きている存在であり続けることは変わりません。

人は、どこまでも、いい意味でも、悪い意味でも、そしていつまでも、そうなのです。

だから、どこまでも自分本意に向かう思考は、自分の目を開こうとしないことと、実は対の関係にある。

それだから、厳しいようでも、自分は生まれながらに特別な存在であるとか、自分だけを環境から切りはなそうとする傾向は、主体自身のおちいる傾向としては、やはりある。

環境に産まれおちて、そこで生きていかなければならない生命が、最初から生きることに恵まれているとしたら、それは確かに素晴らしくやさしい人生となるでしょう。
しかし、生命の実態と歴史を見る限り、そうではない。

そして、それがあり得るとしたら、それこそ、たまたま環境に恵まれていたためであることは自然に見えて来ます。

そうした意味で、私たちにとって環境は、いつまでも厳しい態度を持つものであることは、否定しようがありません。

今、恵まれた環境に居られる人も、ずっとそうだとは言えないはずです。
それこそ、「自分本意」という罠におちいらない限りは。

現に生きている者は、環境と無縁では居られない。幸せになれるかや自分の思う通りに生きられるかは、自分と環境との、その特有の繋がり方で決まって来るものです。
目が開かれていれば、そのことがわかる。

一方で、「自分であるだけで」幸せになれるという考えは、主体にとって、いつまでも魅力的なものであり続けるでしょう。
与えられる感動は最高のものにまで感じられる。
それは、生きることには、できる範囲の努力を懸命にし続けなければならないことによるのです。たとえ、気づかずとも、どのような形をとろうとも、生きている限りは、誰もが懸命に生きることを続けなければならないことに変わりはない。
そのことが、誰しもが得る自然の恩恵の一つとなる由縁なのです。

ただし、忘れてはいけません。このことは、自分がおちいる最大の愚かさと対の問題でもあり続けるのです。

目を開かれて生きるには、生き物にとっては、環境に生きる期待と注意力を向けていること、それもごまかしなく向けていることが何より必要な基本条件であると思います。さらに、人間は、知恵を蓄えて生きる力をつける動物です。
その力は、つまるところ、環境との繋がりから得られる。
辛いからといって、環境に背を向ければ、せっかくの生きる力は無縁化してしまう。それでは、自分に都合のいい夢物語に頼るしかなくなってしまうのは仕方がないことにもなる。しかも、そうした人の現実の弱みをつけこむようにしたさまざまな理屈は、世の中ではいくらでも見つかります。

自然に生きる動物たちなどは、ちょっと環境の危険から目をそらしただけで、いのちを落としたり食べられたりしてしまう。
人間の生き方も、それと違うと言えるでしょうか?
もし言えるとしたら、それは「主観の夢物語」に過ぎないことを考えてみた方がいいのでしょう。それこそが危険の始まりであることが否定できないからです。

主観に考える能力があっても、それは環境との力学的接点で生み出され、環境との力学的接点で働き続けることになる。
ようは、思考の働きは環境的な力学的接点による統一点から見ることで初めて合理的な姿を取るのであるから、そこに主体性の不変の起源思考はあるのです。

私は、逆ピラミッドの思考の見方を、主体性の力学的な始まりには、真に相応しいものと思っています。
まだ、始まったばかりの思考にも、十分な力を蓄えた思考にも、逆ピラミッドの思考法は変わらずに、主体にとって最大の味方となるからです。
逆ピラミッドの生き方は、それによって何も失うことがありません。これまでに、生きるために大切にして来たことは、何も失うことがない。

無論、社会と自然の関係のやり取りは続くので、これまでのように変化は起こる。何かを得て、何かを無くす、そのどちらかのこともある。しかし、逆ピラミッドは、主体の味方につきます。
どのように生きるのかは、自分が主体的に決めて行くことです。あくまで、自分の主体性によって決めることが、逆ピラミッドが応援する唯一の道です。
逆ピラミッドは、いつまでも主体の味方に居続ける、主体の味方で居るために働き続ける普遍の動力なのです。



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