「自分からは何もしない」ことは、社会ではすべきことができる人間を作る。
しかし、それは方法に頼り切るのではなく、「自分が何をするべきか」への目覚めでもあります。
仏教やプロテスタントなどとの考え方とも似ていますが、これは宗教ではありません。
力学的な考えを使った単なる哲学です。
それはいいとして、「自分からは何もしない」ことで社会との道は開けるのだから、じゃあ自分からはもう何も面倒なことをしなくていい、ということではありません。
社会は、社会に居る人たちに、働き手であることを求めています。社会で生きている以上、働くことを否定することはできないのです。
そうした態度は、いずれ裏切り者と映ってしまうだけです。たとえ、言葉には出されなくても、そう見えて来ます。
社会で生きる以上、自分だけ良ければそれでいいということはあり得ない。社会は、あくまで協力して推し進める集団体です。そのことが可能になって、自分もいる。実にこれまでもそうだったしこれからもそうなのです。このことが、はっきりと自覚され、また本気で納得できるようになって行くことが社会で大人になることだと言えるでしょう。
逆ピラミッドの方法論で「自分からは何もしない」ことは、そうした生きる課題を自然に楽にします。
ただ、いくら楽になるとはいっても、いきなり極楽になることはなく、やることはやらねば生活できないことは変わらないし、役割を果たさなければ評価もされません。
言うべきことは言っておくことです。何もことさら声高に主張しなくていい。むしろそういう闇雲に迷惑になることはしないで、ただ自分の役割と思えることをたんたんとやればいいだけです。
その上でも、言うべきことは言っておかなければ評価はされない。
人の世は、人の間の信用が大事なので、生きている以上は評価と無縁であることはあり得ない。
かならず、何らかの評価はされます。それがわかっているのなら、楽で確実に評価を導き入れるようにすればいい。
まずは、社会的な見地で、言うべきことは当たり前のことでも言っておくことです。無論、周りの空気は読むべきでしょうが、逆に当たり前のことも言われないようでは問題です。正しいジャブだと言えるでしょう。
後は、その場の流れに沿った意見と、個人での普段の勉強がものを言うところでしょうが、最近の流れでは、とにかく「ものを言う」ことが重要です。
自分の役割のために発言することと、自分の役割のために質問すること。
この二つができない人は、話し合いの席では、そもそも必要とされない。それは当然の評価の流れとなり、自分からその流れに入ることになる。
話し合いとは自分も相手も協力しながら進めることができるようになることが正しい形となるから、お互い役割の探り合いや置き合いとなります。
別に楽な気持ちで自分にできる範囲から近づいて行けばいいということは基本にあるでしょう。
しかし、社会や集団には、その時までにすでに抱えている問題や課題というものがあって、中々個人の都合にだけは合わせて貰えない。
でも、個人は働き手です。働き手として質問すべきことは当然に質問すべき権利と義務がある。それに働く気がある以上、働けるようになろうとする「個人からの気構え」というものはあるのは当たり前、出すのも当たり前です。
この当たり前の態度こそが、誰にも否定できない社会的態度である以上、これを軸に関わって行くべきです。
しょせん、一時期の問題など、その時ばかりのもの。社会的に当たり前のことに勝ることはないのです。
真に評価されるべきことを見逃してはなりません。