「78枚全部使うと、なんかブレるのよ」、とか言った人2、3人知ってるのだけど

(その人らは大アルカナ22枚しか使おうとしない。別にそれでもできるけど、詳細なニュアンスは欠けてくるだろうし、質問によって得意不得意出てきやすいと思う。ていうか、何よりも22枚しか使わないその理由がね。ある種のこだわりをもってそうしているってことならわかるけど。ブレる、とはいったい・・・)

カードの出方自体は別にブレたりしない。

その人たちが自分自身の脳ミソのキャパを拡張する努力に途中で疲れてしまった、というだけだと思う。

色々なケースにそって、出たものが何を言っているのか推理し、1枚1枚から無限のニュアンスをくみとって翻訳する(で、批評してアドバイスまでして)

シンボルとその解釈の果てしないいたちごっこ的取っ組み合いと馬鹿しあい。

こんなのを78枚正逆含めてやるのは確かに大変に決まっているけど、その大変さを楽しいと思える、またはそれにかかずりあってやろうという執念のある人だけやれば良いのでは。

何にだって言えるけど

言葉と格闘しようともせず、

逆に、扱う言葉自体を自分の狭いキャパ内に小さく仕切って閉じ込めて服従させんとするような人(こういう人はお仕着せのキーワードをそのまんまありがたがってそのまんま誰にでも使ったりもする。冷凍食品を解凍しないで投げつけるようなものだ)は、

他人の考えや体験に対しても、そんなふうに処理しようとしてしまうんじゃなかろうか。

まず向き合って格闘すべき他者は、自分の使う道具としての言葉。

こいつとの向き合い方が中途半端なら、どんな他者との向き合い方も中途半端になる。


一つの言葉、ひとつの象徴ですらあまりにも多義的だ、ということ。

限定的な定義で捕まえた、と思っても、捕まえ切れていないその裏の顔だって同時にそこにあるし、また別の機会にはその定義が全然別様に覆されてしまうことだってある。

常に生成されるそういう複雑さと向き合わなきゃ。                             

白黒つけちまおうといってそういう複雑さを切り捨てて、

語彙自体減らして、

しかも使うひとつひとつを一義的にしか扱わなくなるなんて愚か。

そんな凝り固まった言葉を鏡に生き物を映せっこない

「理解というものは、つねに誤解の総体にすぎない」(村上春樹『スプートニクの恋人』