なぜ占星術するのか、それは自分の存在の根幹にかかわっている。自分の存在の根幹を成しているある強迫観念にかかわっている。

以下は、わたしが19歳の時に書いた短いエッセイ。大学の自由な哲学ゼミに提出したもの。

小学生のときにとらわれた、ある観念、これがたぶん、自分自身の生涯不変の通奏低音なのだろう、と直観したことに基づく文章だ。

自分がもし誰かに作られたロボットなのだとしたら、その設計図を絶対に許すことなんてできない。設計図の範囲を超えるな、というのが設計図だとしたら、そんなものは絶対に許すことはできない・・・・


 

『僕の内部テロ史』


 僕が小学生のとき、ある奇妙な妄想を抱いていた時期があります。

それは、「自分はもしかしたらロボットなのではないか」というものです。

外国のSF小説かテレビ番組からの着想だったと思います。

しかし、ロボット自身がそうやって自発的に自分自身に疑いを持つことがあるのだろうかという思いも一方でありました。

自分はこうやって自分ひとりで物事を考えたり疑ったりできるじゃないか、外部から操作されてはじめて何かができるロボットとは違う。

こう考えて僕は自分の考えを打ち消そうとしました。

しかし、また別のほうから言葉が浮き上がりました。

そうして自分自身に対して疑いをもつこともその疑いを打ち消そうとして自分が人間であることを納得しようとすることも、すべて僕がそう思うようにインプットされているのだとしたら。

で、

このいま考えたこともいま考えたと考えたことも・・・。

しかし結局合わせ鏡のように延々と複写されてゆく疑いをどれだけ追いかけても、自分の正体などつきつめることはできませんでした。
 

 

わたしたちは自分が自発性に基づいて思ったり言ったりしていると感じています。

しかし、この自発性、ひいては自発性を自発性と感じていることすらも誰かのでっち上げなのかもしれない。

それを確かめるには自分という存在の裏側にまわってその基盤をなしている部分でなにが行われているかを見極めるしかありません。

しかし、その自己の根本システムを疑う視線そのものが自己の根本システムから生まれでたもののひとつに他ならないわけです。

疑いの視線自体を疑って疑いの視線を疑う視線を疑って、というように思考は思考であるかぎり結局自己の内部から抜け出すことはできないのでした。
 
 
 

このころ見た夢で忘れられないものがあります。

僕はまず夢の中で夜布団のなかで眠れないで起きている。

そこでぼくはふとリヴィングルームを覗きに行きます。

ドアの隙間から父親の背中が見えました。父親はコンピュータの画面に向かっているようです。

ぼくは静かに近寄りました。

父親の視線の先、そこに映っていたものは、機械でできたぼくの体の詳細な設計図でした。

この夢は、当時のぼくのかかえる自己存在へのもどかしさと不安の表れだったのだと思います。
 

 

さて、自分は誰かにあやつられていてもおかしくはないという認識から、ぼくは面白半分で自分をどこかで操作しようとしている視線のようなものを想定して、それをどうにか裏切ってみようと試みたのでした。

たとえば自分がなにかを選ぶとき、選び取る直前でそれまで選ぼうとしていたものを避けるとか、突然場違いな奇矯な振る舞いにでてみるとか。

まるで自分の意識というものがまとわりついてくるのを振り切ろうと、もしくはかく乱しようとするかのようにさまざまな機会にはじめ意図されたこととはまったく別のことを考える、行動する自分を即座に登場させたのでした。

もちろんすべてにおいて一貫してこのような態度をとっていたわけではありません。

ときどき気まぐれにゲームでもしようかという気持ちとともに突然頭をもたげ、こうしてはた目に滑稽な格闘を繰り広げるという感じでした。

しかし不毛であることは意識しての、これもあくまで戯れだったとは思いますが。
 

 

もうひとつ、自分というものを裏切るためにぼくがし続けてきたことがあります。

それは、自分にとってはじめ異質と思えるものをどうにか自然に愛せるようになるということです。

じぶんは裏で操作されているのだとしたら、自分が良いとか悪いとか思う基準もはじめから定められたものでしかない。

だったら自分には理解を、感受の幅を超えていると当座は思えているものを魅力的にみえるように自己を仕向ける、言い換えれば魅力的だと思える視点を自己のなかから掘り起こそう、つまり、自己の意識のインプット外にあるかもしれない部分を引き寄せることによって、自分をこれまで動かしていた既成化している自己システムの構造に亀裂を生じさせ、報復を加えてやろうではないかという企てです。

しかし自己システムはその亀裂さえもいつのまにか昔から当然そこにあったかのように自然に内部化してしまうという機能を発揮しだします。

だからこの闘いも際限のないものだと言えるのかもしれません。
 

 

ともすれば安定と常識化のもやの中へぼくをとりこみ既成化された法則に忠実な指令を発してぼくをあやつろうとする自己システムへ、ぼくはいまも外部からの未知の刺激と結託して内部テロを起こそうとしつづけているわけです(自己システムを抜け出て、自己システムの根本的改変を謀るということは不可能かもしれない、しかしその自己システムが固定した自足の形態をとり、秩序だった支配的な法則を発揮しだすということを食い止めるため、常に未分化な混沌とした状態に引き戻すということは内部からの挑戦によって可能なのではないか)。

ぼくの趣味嗜好がいわゆるアウトサイダーと呼ばれるもの、極端に実験的、前衛的と呼ばれるような、つまり既成の言葉に容易に絡めとられることのないものへ向かうのはこのためかもしれません。
 

 

さて、ここまでの記述はもちろんぼくが当時からこのような意識化された明確な意図をもって行っていたということを示してはいません。

あくまでも現在の視点から自己の過去の行動を眺めて、そのひとつの読み取りの仕方の可能性を記したということです。

このような読み取りははじめに書いた「自分はロボットなのではないか」という一見突拍子のない発想が自分のそれからの人生、現在に至るまで大きな影をおとしていることを直感したことに由来しています。








さて、今のわたしが19歳のときの自分に応答しよう



わたしが後になって発見したホロスコープという図は違った。

これは、自分というものを定義づけるものでありながら、その囲いから脱出するための道しるべを示してくれるものでもあった。

人間の都合ではないものに基づく設計図。

竜巻も地震も雷もそこから作られているところの大きな謎。その謎をシンボル化したもの。

絶対に演奏能力を超えさせてしまう楽譜

冷静でいながら確実に反逆するために、参考となるものだ。これを見つけてわたしは救われた。