ドナテッロ展に先立って | フィレンツェ暮らしアレコレ

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フィレンツェの中心街から郊外に移り住んでマッタリのんびり?
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こんにちは。

 初期ルネサンスを代表する彫刻家ドナテッロですが、イタリア美術ファンでないと日本では、はあまり馴染みがない名前かもしれません。

Donatello(ドナテッロ)は通称で、本名はDonato di Niccolò di Bettoで、フィレンツェに1386年に梳毛業の労働者の子として生まれ、フィレンツェを拠点に活躍し、1466年12月13日に亡くなりました。


 古代ローマの影響を受けた作品を最初に製作したのは彼より100年前のピサの芸術家の二コーラ・ピサーノとその息子ジョヴァンニで、既に男女のリアルな裸体像やヘラクレスをピサ大聖堂の説教壇に彫っています。

(1302-10年,ジョヴァンニ・ピサーノ作、ピサの説教壇部分)




ピサには古代ローマ時代の石棺の浮き彫りを始め、トスカーナ各地の中世に栄えた都市の中で古代ローマ彫刻が突出して多く残っていた為(その後の時の流れと第ニ次世界大戦かなり失われたのですが)、時代としてはイタリアではロマネスクからゴシックの始まりに当たる時代にもかかわらず古代ローマ彫刻に近い彫刻を彫り、中部イタリアの最も優れた建築家として活躍します。1315年にジョバンニが亡くなり、彼のもとで仕事をした芸術家とその流れを汲む芸術家が活躍して行くのですが、北からのゴシックの流れが入り写実性は失われて硬い表現と引き伸ばされた人体表現になります。そんな中、再び古代ローマ風の作品を製作したのが、シエナのヤコポ・デッラ・クゥエルチャやフィレンツェのブルネッレスキ、ナンニ・ディ・バンコ、ドナテッロなどです。

(1406-8年ヤコポ・デッラ・クゥエルチャ作、ルッカ大聖堂に有るイラリア・デル・カッレットの棺)



(1409-1416年ナンニ・ディ・バンコ作、オルサンミケーレに有る4殉教聖人)


(1412年、フィリッポ・ブルネッレスキ作?オルサンミケーレに有る聖ペテロ)


(1416年ドナテッロ作、バルジェッロ美術館に有る聖ジョルジョ)


(1431、9年ルカ・デッラ・ロッビア作、バルジェッロに有る上ポデスタの紋章、下ペテロに物語の浮き彫り2枚)


(ルカ・デッラ・ロッビア作、バルジェッロに有る彩釉テラコッタ作品

15世紀初めの頃、ドナテッロには良き先輩、ライバルが多くいた中で、何故ドナテッロが特別視されるかというと、ドナテッロの若い頃の師匠だった可能性が有るブルネッレスキが発明したと言われる遠近法(古代ローマ時代には無かった)のテクニックをブルネッレスキから学び、浮き彫りのテクニックに活かした(聖ジョルジョの台座の浮き彫り)最初の芸術家で有り、長命で、常に挑戦し続け、亡くなるまで時代の最先端で有り続けた事が大きいと思います。

 当時芸術家は、絵画、彫刻、建築できることはなんでも手がけていた中で、ブルネッレスキは彫金や彫刻の仕事から離れて建築や機械工学を専門にしていき、ドナテッロの10歳ほど歳上だったナンニ・ディバンコは40代で亡くなり、ルカ・デッラ・ロッビアは彫刻家としての仕事より自ら開発した彩釉テラコッタ作品の制作に移行していきます。

 

 ドナテッロの後に続いた彫刻家がレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠として有名なヴェロッキオ、そのライバルのアントニオ・デル・ポッライオーロで、ミケランジェロが若い頃彫刻を学んだメディチ家主催の彫刻の学校はドナテッロ晩年の工房で協力者として働いていたベルトルド・ディ・ジョヴァンニが教えていました。

 そんなわけで、ミケランジェロも間接的にドナテッロと繋がりがあるのです。

 そして今回の展示会は絵画も関連づけて展示されています。ブルネッレスキから遠近法を学んだとされている画家がマザッチョです。

 マザッチョは28歳でローマで亡くなり作品が大変少なく、貴重なのですが、今回の展示会にピサのサンマッテオ美術館から、ドナテッロの鋳造作品とともにマザッチョが製作した多翼祭壇画の一部もこの展示会に貸し出されていたので見学が楽しみです。

 美術館は作品を見る事が目的の大部分ですが、テーマが明確な展示会は主催者がコンセプトに沿って作品を集めてストーリー付けて展示しているのでドキュメンタリーを体感するような面白みも感じられます。

 明日はちょうど春分、良い一日になりますように。