東芝EMI IRS-80402 \2500 1976 (1974) ビクトル・ハラチリ1973年9月
(歌とギター)ビクトル・ハラ
(ナレーション)ジョーン・ハラ、アンドリアン・ミッチェル
SIDE A
1. アマンダの想い出
2. 自由な歌
3. 私はここに
4. アンヘリータ・ウエヌマン
5. ニ・チーチャ・ニ・リモナー(役立たず)
6. 耕す者への祈り
SIDE B
1. 仕事場への道すがら
2. 平和に生きる権利
3. 吹け、われらの風
4. 宣言
5. 出発
6. チリ・スタディアム
チリ軍事政権に虐殺されたビクトル・ハラ。なんと英国のトランスアトランテックレーベルから発売されたこともあった。残された妻ジョーン・ハラのナレーションを聴くと背筋を伸ばして聴かなくちゃ。私にとって中南米音楽の書庫ではなくSSW/SWAMPに入れたかったので。1974年の追悼盤が日本でもようやく陽の目を浴びたのは1976年頃?
歌いたい歌があった。伝えたい人がいた。
詳しくは
1969年、チリ・カトリック大学主催の「新しい歌」フェスティバルに参加し、『耕す者への祈り』(La plegaria a un labrador)で優勝する。
1970年、チリ人民連合によりアジェンデ政権が成立したが、1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍の軍事クーデター(チリ・クーデター)によってアジェンデ政権は崩壊。その直後、ビクトル・ハラは軍に逮捕され、チリ・スタジアム(屋内競技場。エスダディオ・ナシオナル・デ・チリとは別の場所)に連行された後、虐殺された。
連行されてきた多くの市民を励まそうと革命歌ベンセレーモスを歌ったところ、ギターを取り上げられ、「二度とギターを弾けないように」と両手を撃ち砕かれ、それでも歌いやめなかったため、大衆の面前で射殺されたという伝説が流布されたが、しかし、現存しているクーデター時の写真などによれば、連行時は後ろ手に両手を組まされて軍の銃で監視されていたはずであり、そもそも、ギターなどは持ち込めたはずがないのが実情であった。事実は、手拍子で同曲を歌ったところ、兵士に地下に連行され、そこで銃で殺害された。 このときの犯人である兵士3名は、2009年になって、チリで逮捕、訴追されている。また2013年には、首謀者ペドロ・バリエントス(2013年現在アメリカ・フロリダ州在住)を含む残りの4人に対してもサンティアゴの控訴裁判所から逮捕状が発行された。
彼が虐殺された現場であるチリ・スタジアムは、民政復帰後「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改名された。 また、2009年12月、サンティアゴにて、ミシェル・バチェレ大統領等の出席の下、公式の葬儀が行われた。