「二代目三遊亭円歌 は新潟出身」
 
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キャニオン L-3007/9 \4500 1971/11  二代目三遊亭円歌名演集
 
SIDE 1
 
1.呼び出し電話 (昭和39年7月録音)
2.紋三郎稲荷 (昭和38年6月録音)
 
SIDE 2
 
1.紺田屋  (昭和33年1月録音)
 
SIDE 3
 
1高野違い (昭和33年4月録音)
2.てれすこ (昭和35年7月録音)
 
SIDE 4
 
1.馬大家 (昭和37年8月録音)
2.七草 (昭和35年1月録音)
3.トラタク (昭和35年9月録音)
 
SIDE 5
 
1.七段目 (昭和36年12月録音)
2.写真の仇討 (昭和37年11月録音)
 
SIDE 6
 
1.西行 (昭和37年10月録音)
2.くしゃみ義太夫 (昭和36年10月録音)
 
これは知り合いに頼まれて探したもの。
 
二代目、つまり先代円歌のレコードである。
 
新潟出身で旧制中学卒であった。
 
当時ではインテリ落語家だったのか。
 
別冊の解説書も付いているので聴きながら。
 
実はあまり聴いた事がなかった二代目円歌。
 
「円歌」の字はわざと略字にしたという。
 
当代は圓歌に戻しているようだが。
 
新作と古典の両刀使いであった。
 
新潟の訛りとどもりで苦労したらしい。
 
なおウィキペデアによれば
 
2代目 [編集]
本名は田中利助(たなか りすけ)1890年4月28日 - 1964年8月25日出囃子は「踊り地」。新潟県生まれ。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学卒業の高学歴で、横浜で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで、札幌に移って、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。
はじめは旅回りの一座に入り勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽で巡業中の2代目小圓朝に見つかり、それがきっかけとなって、大正4(1914年)に東京の初代三遊亭圓歌門に入り歌寿美と名乗る。のち三遊亭歌奴。大正10(1920年)真打。昭和9(1934年)2代目歌(「圓」の字は画数が多く自分の芸風にあわないとして「円」の文字を使っていた)を襲名。新潟訛りと吃音を非常な努力の末で克服した。
持ちネタも多く新作では「呼び出し電話」「社長の電話」「空き巣の電話」「ボロタク」「木炭車」「馬大家」。芝居噺では「七段目」「将門」。古典はあまりやり手のない「紺田屋」「写真の仇討」「紋三郎稲荷」「山岡角兵衛」「首ったけ」「姫かたり」などがある。
モダンで明るく、艶っぽい芸風で女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じたが、残された音源を聞くと、放送禁止用語が連発されるのに一つも嫌らしく聞こえない。かなりの力量を持った噺家であった。大の歌舞伎ファンでもあった。
また、彼の本名「田中利助」は落語・「花色木綿(出来心)」で表札に書かれていた名前に今なお活躍することがある。
5代目古今亭志ん生とは、息子が志ん生の娘と結婚したため、親戚関係にあった(ただし、円歌の死後に両者は離婚)。
晩年は自家用車を買って、自分で運転していたが、「ひとにぶつけてはいけないと」非常にスロー運転で、銀座で「あまり遅すぎる」と警察から罰金をとられたことがあるという[1]
1963年落語協会副会長就任。この時に圓歌を健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任に推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して6代目三遊亭圓生を会長に推そうとしたため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった8代目桂文楽が会長に復帰し、圓歌が副会長に収まったという経緯がある。
結局は会長就任がかなわぬまま1964年8月25日死去。享年74。没後副会長職は圓生が引継いだ(翌1965年に会長に就任)。
3代目三遊亭金馬は兄弟弟子。門下には3代目圓歌、三遊亭笑三、3代目三遊亭歌笑立花家色奴・小奴(色奴は3代目三遊亭圓遊の妻で小奴は娘)がいる。