

日本ビクター VICTOR SP J-54453 あきれた・ぼういず 「スクラム組んで」
日本ビクター VICTOR SP J-54453 あきれた・ぼういず 「空晴れて」
あきれた・ぼういず 川田義雄・芝利英・坊屋三郎・益田喜頓
私たちには(昭和27年生まれ)「地球の上に朝が来る~♪そのまた向こうは夜だろう」
のフレーズの川田晴久とミルク・ブラザースの方がなじみぶかい。
80年代のビクターとテイチクからの復刻盤で初めて体験したわけだ。
やはり面白いのはビクター時代のほうだ。
現在ではともにCD化もなされた。
当時としてはインテリ連中をとりこにしたんだろう。
フレーズとして「現代に聴いても通用する」なんてのがあるがほんとうはうそ。
さすがにスピード感が違うのは事実。
愛聴盤にはなりませんが年に1回位なら楽しめます。
しかし研究用あるいはお勉強用に聴くのは面白い。
海外の音楽の流行りの部分を見事にパロディ。
ジャズから浪花節までなんでもござれ。
トニー谷の方が有名かもしれないあのソロバン芸も坊屋三郎が始めたとか?だったと。
そういえば子供時代の美空ひばりを可愛がっていた川田晴久。
以下ネットで調べたら
1938年、ビクターの上山敬三があきれたぼういずの演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかける。同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、テスト盤が内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まる。日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めた。
1939年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いたため、川田を除いた3人が新興に移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザース」を結成。「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなる。
一方、新興に移った坊屋、芝、益田は山茶花究を加え、「第2次あきれたぼういず」を結成。同時にレコード会社もテイチクに移籍し、「あきれた石松」「ダイナ競走曲」などのヒット曲を生み出す。1941年12月、太平洋戦争に突入後、ジャズは敵性音楽として禁止となり、音楽とセリフの面で厳しい制限をかけられる。グループ名も「新興快速舞隊」に変更する。
芝利英の応召(のち戦死)、益田が一時外に出るなどメンバーが入れ替わるながら1943年まで活動を続けた。同時期、音楽男や長井竜隆也、星しんじなどのメンバーが加入することもあった。
終戦後、世間の期待により、1947年に浅草の松竹座でカムバックを果たすが1951年に解散。 以降、坊屋、益田、山茶花は、舞台、映画界で活躍することになる。