片づけをした日から、何日か経っていた。
押し入れの奥に戻した水筒のことを、私はまだ捨てていなかった。
けれど、毎日思い出していたわけでもない。
朝になれば仕事へ行き、夜になれば帰ってくる。
夕食を食べ、テレビを見て、風呂に入り、寝る。
生活は、そう簡単には変わらない。
その日も、いつもと同じような夜だった。
食卓には、焼き魚と冷奴と味噌汁が並んでいた。
テレビでは、春の新ドラマの番宣が流れていた。
恵理子は味噌汁を少しすすってから、箸を置いた。
「ちょっと話いい?」
私は魚の骨をよけながら、「何?」と答えた。
子どものことかと思った。
長男の仕事のことか、次男の引っ越しのことか、保険か、車検か、親のことか。
夫婦の話し合いというものは、たいてい何かの確認から始まる。
けれど、恵理子はすぐには続けなかった。
テレビの音だけが、少し大きく聞こえた。
「卒婚って、知ってる?」
恵理子は、こちらを見ずにそう言った。
卒婚。
その言葉を、私は知っていた。
いつだったか、職場で流れていたラジオで聞いた言葉だった。
離婚ではない。
別居でもない。
夫婦を卒業する。
あの時、パーソナリティはそう説明していた。
私はすぐには答えなかった。
知っている、と言えば、その先を聞かなければならない気がした。
知らない、と言えば、恵理子が説明を始めるのだろうと思った。
どちらにしても、話はそこへ向かう。
そんな気がした。
「卒婚?」
私は聞き返した。
時間を稼ぐような声だった。
「知ってるん?」
恵理子が聞いた。
「前に、ラジオで聞いたことある」
「そうなんや」
恵理子は小さくうなずいた。
それだけで、私は少し嫌な感じがした。
恵理子は、ただ言葉の意味を聞きたかったわけではない。
それを知っているかどうか。
その言葉を、私がどう受け止めるか。
たぶん、それを確かめている。
「なんで?」
私は言った。
自分でも、少し早いと思った。
でも、そう聞くしかなかった。
恵理子は少しだけ間を置いた。
「私な」
そう言って、一度だけ息を吸った。
「それをしたいと思ってる」
私は、箸を持ったまま止まった。
卒婚。
もう一度、頭の中でその言葉を繰り返した。
あの時のラジオでは、やけにお洒落な言葉に聞こえた。
ピザ屋を巡る妻。
釣りを再開した夫。
全部を共有しないけれど、少しだけ話す距離感。
東京のラジオは、何でもきれいにする。
重たいものにも、明るい布をかけて、ライフスタイルと呼ぶ。
でも、食卓の向こうで恵理子が言ったその言葉には、少しも風通しの良さがなかった。
「それ、離婚したいってこと?」
私は聞いた。
「違う」
恵理子は、すぐに首を振った。
「離婚ではない」
その言い方は、あらかじめ用意していた言葉のようだった。
「別居するつもりもない。家を出たいわけでもない」
「じゃあ、何なん」
「これからは、夫婦としてというより、同じ家で、それぞれの人生を生きたい」
私は、恵理子の言葉を頭の中で繰り返した。
同じ家で。
それぞれの人生を。
意味は分かるような気がした。
でも、自分の家の食卓で言われると、急に分からなくなった。
テレビでは、番宣のタレントが笑っていた。
さっきまで普通に聞こえていたその笑い声が、急に遠くなった。
「それ、いつから考えてたん」
私は聞いた。
恵理子は少しだけ目を伏せた。
「いつからっていうか、ずっと少しずつ」
ずっと少しずつ。
その言葉は、思っていたより痛かった。
私にとっては今聞いた話だった。
けれど恵理子の中では、今日突然出てきたものではないらしかった。
「嫌いになったとか、そういうことではないねん」
恵理子は続けた。
「それは分かってほしい」
私はうなずいた。
本当に分かったわけではなかった。
でも、そこでうなずかなければ、話が壊れてしまう気がした。
「夫婦をやめるってこと?」
自分でそう言ってから、その言葉の大きさに少し遅れて気づいた。
恵理子は、すぐには答えなかった。
「やめるというか」
彼女は言葉を選んでいた。
「もう、妻という役割から少し降りたい」
妻という役割。
その言葉を聞いた時、私はなぜか、押し入れの奥に戻した水筒のことを思い出した。
もう使わない。
置いていても邪魔。
誰も困らない。
だから、捨てる。
そんなふうに考えたわけではない。
恵理子がそう言ったわけでもない。
それでも私は、一瞬だけ、自分たちの結婚生活が保留の箱から出されて、食卓の上に置かれたような気がした。
「急に言われても」
私はそう言った。
声は、まだ驚くほど落ち着いていた。
恵理子はうなずいた。
「急やと思う」
「思う、って」
「でも、急に言ったつもりはないねん。私の中では」
その一言で、私は黙った。
私の中では。
その言葉を聞いた時、私はようやく、恵理子がこれまで何度もそんな話をしていたことを思い出した。
子ども達がまだ家にいた頃から、恵理子はよく、子どもが家を出た後の話をした。
「子どもらが出ていったら、ちょっと小さい車に乗りたいな」
「この部屋、思いっきり模様替えしたい」
「二人でキャンプとか行くのもいいな」
「一回くらい、海外も行きたいな」
そんなことを、夕食の支度をしながら、洗濯物をたたみながら、車の助手席で信号待ちをしている時に、何度も言っていた。
私はそのたびに、軽く返していた。
「ええんちゃう」
「その頃には考えよか」
「海外もいいな」
「キャンプも楽しそうやな」
本気で聞いていなかったわけではない。
ただ、それは遠い未来の話だと思っていた。
子ども達の弁当があって、部活の予定があって、塾の送り迎えがあって、週末の買い物があって、毎日が目の前のことで埋まっていた頃、子どもが家を出た後の話は、どこか他人事みたいに聞こえた。
やたら子どもが成長した後の話をするな。
私は、そんなふうに思っていた。
けれど恵理子にとっては、ただの雑談ではなかったのかもしれない。
子ども達が家を出た後、何に乗るか。
どんな部屋で暮らすか。
どこへ行くか。
誰と、どう過ごすか。
それは、恵理子にとって、自分のこれからを確かめるための話だったのかもしれない。
そしてその話の中には、いつも私もいた。
小さい車に乗る時も。
模様替えした部屋にいる時も。
キャンプに行く時も。
海外へ行く時も。
恵理子は、その未来を一人で話していたわけではなかった。
私はそれに、ちゃんと返事をしてこなかった。
返事はしていた。
けれど、受け取ってはいなかった。
恵理子の中では。
その言葉の意味が、少しだけ遅れて分かった気がした。
「今までの生活が嫌やったん?」
私は聞いた。
恵理子は首を横に振った。
「嫌やったわけじゃない」
「じゃあ、何で」
「嫌じゃないことと、このままずっと続けたいことは、違うと思う」
その言葉に、私は何も返せなかった。
嫌ではない。
でも、続けたいわけではない。
そんな言い方があるのかと思った。
けれど、恵理子はたぶん、そういう言葉をずっと探していたのだと思う。
「子ども達も家を出たし」
恵理子は言った。
「もう、誰かのお母さんとして毎日を回す時期は終わったと思うねん」
「お母さんじゃなくなるわけではないやろ」
「それはそうやけど」
恵理子は小さくうなずいた。
「でも、毎日の中心に子ども達の予定がある生活は終わったやん」
それは、確かにそうだった。
弁当もない。
部活の予定もない。
塾の送り迎えもない。
試合の集合時間を確認することもない。
洗面所に誰かのタオルが何枚も干されていることもない。
玄関に泥のついた靴が並んでいることもない。
家の中から、用事は少しずつ減っていた。
用事が減った分だけ、時間ができた。
時間ができた分だけ、恵理子は自分のことを考えるようになったのかもしれない。
私は、その時間をどう使うかを考えていなかった。
ただ、生活が少し楽になったと思っていた。
「私は、これからの時間を、もう少し自分のものとして使いたい」
恵理子は言った。
「誰かの妻として、何かをしてあげるとか、気にするとか、そういうことを少し減らしたい」
「俺、そんなに何かしてもらってる?」
言ってから、とても嫌な言い方だったと思った。
恵理子は怒らなかった。
「してるよ」
ただ、静かにそう言った。
「ご飯作ったり、洗濯したり、予定気にしたり、体調見たり。細かいことやけど、ず
っとしてる」
「俺もしてることはある」
「うん、してくれてることもある」
「ある、って」
「でも、私が言ってるのは、家事の量の話だけじゃない」
恵理子は箸を持ち直したが、何もつかまなかった。
「気持ちの置き方の話」
気持ちの置き方。
その言葉は、また分かるようで分からなかった。
「私がどこか行く時、いちいち言わなくてもいい。あなたがどこか行く時も、私に合わせなくていい。休みの日も、無理に一緒に過ごさなくていい」
「今も、そんな無理に一緒におるわけちゃうやろ」
「そうやけど」
恵理子は少しだけ笑った。
「でも、夫婦やから、何となく聞くやん。何となく合わせるやん。何となく気にするやん」
私は黙っていた。
たぶん、そうだった。
何時に帰るのか。
昼は食べるのか。
日曜日はどこか行くのか。
晩ご飯はいるのか。
どれも大したことではない。
けれど、大したことではないものを毎日続けることで、夫婦という形は保たれていたのかもしれない。
「それを、少しやめたい」
恵理子は言った。
「全部やめたいわけじゃない。家を出たいわけでもない。離婚したいわけでもない」
「でも、夫婦ではなくなりたい?」
私が聞くと、恵理子は少し困った顔をした。
「そこまで簡単には言えへん」
「でも、卒婚ってそういうことやろ」
「そうやな」
恵理子は、今度は逃げずにうなずいた。
「そういうことなんやと思う」
食卓の上には、まだ夕食が残っていた。
冷奴の上のねぎが少し乾き始めていた。
味噌汁の湯気は、もうほとんど見えなくなっていた。
生活は、そう簡単には変わらない。
けれど、変わる時は、こんなふうに変わるのかもしれない。
同じ家。
同じ食卓。
同じ箸。
同じ味噌汁。
その全部が同じまま、言葉だけが一つ変わる。
妻。
その言葉が、食卓の上で少しだけ遠くなった。