家に帰ると、恵理子は台所に立っていた。
換気扇の音がして、味噌汁の匂いがした。シンクの横には、まな板と包丁が置かれていて、切り終えた青ねぎが小さな皿にまとめられていた。
「今日な、職場のラジオ、まだ東京やったわ」
恵理子は鍋の方を見たまま、「まだ直ってないん?」と返した。
「直ってないというか、誰も直そうとしてないな。仕事中に流してるだけやし」
「何のラジオ?」
「東京の朝のやつ。なんか、めっちゃお洒落」
「お洒落なラジオ?」
恵理子が少し笑った。
「声がな、透き通る風みたいな声やねん」
言ってから、自分で少し気持ち悪い言い方をしたと思った。
恵理子は菜箸を止めて、こちらを見た。
「何それ」
「いや、ほんまにそんな感じやねん。朝のきれいな空気みたいな声で、ずっとええ感じのこと言ってる」
「へえ」
「日替わりテーマも、全部お洒落やねん。自分らしい暮らしとか、大人のひとり時間とか、心地よい距離感とか」
「心地よい距離感」
恵理子はその言葉だけ、少し面白そうに繰り返した。
私は靴下を脱ぎながら、何でもない顔をした。
「そういうやつ。でな、番組名もいちいちお洒落やねん」
「番組名?」
「なんやと思う?」
「知らんわ」
「たとえば、ディアフレンズとか」
「ありそう」
「あと、ブルーオーシャンとか」
「海やん」
「海やねん。ただの海ちゃうで?ブルーなオーシャンやで」
恵理子は菜箸を持ったまま笑った。
「大阪やったら、もっと違うやろな」
「絶対違う。もっと、朝からすんません、みたいな感じや、ファンキーなんちゃらとかエキサイティングミュージックとか」
「そんな番組ないやろ」
「でも大阪はそんな感じやろ。東京のラジオは、何でも風通しよくするからな。声も透き通ってるし」
「透き通ってるんや」
「ホンマに、風みたいな声」
「また言うてる」
「ほんまにそんな感じやねん、透き通る風」
私は手を洗いに洗面所へ向かった。
「なんか、聞いてたらちょっと鼻につく。早く大阪のラジオに戻ってほしい」
「大阪の方がいいの?」
「そらそうやろ。大阪のラジオの方が落ち着く。話すぐ脱線するし、笑い声とか、たまに何の話してるか分からんけど」
「それ落ち着くんや」
「落ち着く。鈍くさい方が信用できる」
恵理子は小さく笑って、火を弱めた。
恵理子のパート先でも、昼間はラジオが流れていた。店の奥の棚の上に小さなラジカセが置かれていて、だいたいFM802がかかっているらしい。
だから、家でラジオの話をすることは時々あった。
今日、あの曲流れてた。
あのドラマの話してた。
ワールドカップの話してた。
GLAY流れたら、やっぱりちょっとテンション上がるな。
そんな程度の話だった。
夫婦の会話というほど大げさなものではない。夕食の支度をしながら、テレビをつけるまでの間に流れる、ちょっとした音のような話だった。
「今日、802でGLAY流れてたで」
恵理子が思い出したように言った。
「何?」
「HOWEVER」
「それは上がるな」
「パートのおばちゃんら、みんなちょっと声大きなってた」
「分かるわ」
私は手を洗いながら笑った。
「あと、昼にドラマの話してた。あれ、見てるやつ」
「ああ、日曜の?」
「そう。あの主人公、やっぱり怪しいって言ってた」
「俺も怪しいと思ってた」
「でも、ああいう時ってだいたい違う人やで」
「それも分かる」
そういう話をしている時の恵理子は、いつもの恵理子だった。
鍋の蓋を少しずらす手。冷蔵庫を開ける背中。
味見をする時に少しだけ目を細める顔。
結婚して何年経ったのか、すぐには数えられなくても、そういう動きだけは見慣れていた。
私は、東京のラジオで聞いたその日のテーマを言わなかった。
言えなかった、というほど大げさなことではない。
ただ、言わなかった。
卒婚、、、。
その言葉は、まだ自分の家には似合わなかった。
子ども達の予定が冷蔵庫に貼ってあって、洗面所には誰かの部活のタオルが干してあって、リビングには学校から持って帰ってきたプリントが置きっぱなしになっている。
そういう家の中で口にするには、少し遠い言葉だった。
けれど、遠いからといって、まったく関係がないとも言い切れなかった。
子どもはいずれ大きくなる。
家を出る日も来る。
夫婦だけになる日も来る。
その時、自分たちはどうなるのか。
一瞬だけ、そんなことが頭をよぎった。
私は蛇口を止め、タオルで手を拭いた。
言葉というのは、耳に入れてしまうと、思っているより長く残ることがある。特に、今はいらないと思った言葉ほど、妙なところに引っかかる。
だから、恵理子には言わなかった。
選択肢みたいな顔をして、妻の耳に入るのが嫌だった。
「で、その東京のラジオ、何の話してたん?」
恵理子が何気なく聞いた。
私は一拍だけ遅れて、「まあ、何か暮らしの話」と答えた。
「暮らしの話?」
「そう。お洒落な暮らしの話」
「ざっくりしすぎやろ」
「ほんまにそんな感じやねん」
恵理子は笑って、味噌汁のお椀を出した。
「東京っぽいな」
「やろ?」
私は食卓の椅子を引いた。
テレビはまだついていなかった。
台所からは味噌汁の湯気が上がっていて、リビングの隅には畳まれていない洗濯物が少しだけ残っていた。
お洒落でも、透き通ってもいない。
でも、私にはその方がよかった。
恵理子が味噌汁を運んでくる。
私は、東京のラジオの話をそこで終わらせた。