これから出会う人に、夢のなかで会う


 わたしは新しい人と出会う前に、すべての人ではないけど、夢のなかで会うことがあります。そのあとで、その人に出会うと、「あ、夢のなかで会った人だ」とわかります。

 容姿はまったく違うのですが、夢のなかでその人のエネルギーを感じているので、実際に現実のなかで会ったときにわかるのだと思います。そういう人は大体、自分にとって特定の人になります。たとえば友人や、恋人になるような人です。

 あたらしく移る部署や転職先といった場所の人たちと夢のなかで事前に会うことももちろんあります。このブログのテーマに出てくる、同じ信念同士が出会うというように、「この人がこれからあなたと同じ学びを分かち合うことになるよ」という、守護天使といった存在からの連絡のようなものです。実際の三次元の肉体の状態で会うまえに、エネルギー的に自己紹介をしあうのでしょう。

 もちろん、だれにでもこのようなことは起きているのですが、覚えていないというだけです。スピリチュアルな感度が強くなってくると、現実のように思えるぐらい鮮明な夢を見るようになるので、夢の記憶もそれだけ残るようになります。

 

 夢のなかでは時間が存在しない

 時間というのは幻想であって、実際は存在しないというのは聞いたことがあるかもしれません。時間は人間が作り出したもので、すべては今の連続です。なので、過去とか未来とかもほんとうは存在しないのです。

 この事実をはじめて知った人はなかなか信じられないかもしれませんが、たとえば、なにもない宇宙空間にいる状態を想像するとわかりやすいです。宇宙空間にはカレンダーも歴史もありません。さまざまなエネルギーが渦巻き、作用しあっているだけです。人間がいない世界では時間が存在しないということです。また、動物や植物や鉱物といった存在も、時間とは無関係です。彼らには時計とか年齢という概念がなく、ただ、今を生きています。つまり、過去や未来というのは、人間の頭のなかにしか存在しないということです。

 ふだんの生活では、なかなか時間が存在しない空間を経験することは難しいと思います。

 しかし、夢のなかではそれが経験できます。たとえば、ある人と夢のなかで1日中一緒に過ごしていたように感じるのに、起きてみたらほんの2,3分のように感じられることがあると思います。人は眠っているとき、肉体から離れてエネルギーだけの存在になり、時間が存在しない次元に移動します。なので、2~3分が永遠のように長く感じられるのです。時間のある世界は人間が作った幻想で、実は夢のなかの世界がほんとうだということです。

 ちなみに、もうひとつ時間のない世界を体験できる方法があります。それは瞑想です。瞑想については、エックハルト・トールの本がおすすめです。
 ほんとうのゆるし

 くり返し言うのですが、ゆるせない出来事のなかにある傷が深ければ深いほど、寂しさや恐れが強ければ強いほど、怒りはとても大きなものになってしまいます。 

 怒りのなかにある傷や寂しさや恐れが癒されてくると、不思議なことに、相手をゆるすとか、ゆるさないとかいう感覚自体がなくなってきます。 逆に、癒されないままだと、怒りは大きいままなので、「ぜったいにゆるさない!」という気持ちが強くなってしまいます。

 ゆるしについての多くの本は「相手をゆるすこと」にフォーカスされていて、ゆるしたくてもゆるせないでいる人の感情の苦しみを癒すことについては、あまりフォーカスされていません。また、ゆるすことのすばらしさや大切さについて説かれていることが多いので、本を読んでもゆるせないままでいる、怒りがぶり返す自分の精神性が低く感じられてしまい、自己嫌悪に陥ってしまう、という悪循環にもなりえます。

 そうなると、「ゆるせないことが悪いこと」のように感じられ、ゆるせないでいる自分を批難し、その苦しさをあたえる相手にたいしての怒りをますます募らせてしまいます。

 ゆるす、という行為は愛と同じく目に見えないものですが、感じることはできます。相手にたいする感情がなくなってくるということが、ゆるすということです。あるいは、流す(怒りが自然に流される)とも言えます。ゆるしというのは起こすものではなく、起きるものなのかもしれません。




  相手をゆるす前に、自分をゆるす

 過去の出来事のなかで「どうしてもゆるせない!」と苦しんでいる人はほんとうにたくさんいると思います。世の中の大半のストレスの元は、「ゆるせない」ことにあるように感じます。では、どうしてゆるせないのかというと、

 相手をまず先にゆるそうとするからです。

 相手を先にゆるそうとすると、自分の傷や孤独や恐れはなおざりにされ、癒されません。

 たとえば、思い出すたびに腹が立ってしかたない、ゆるせないことがあるとします。しかし人は「いつまでも恨みつらみの感情を持っていてはダメだ! 早く忘れてしまえ!」などと、自分を責めてしまいがちです。そして、「いつまでもゆるせないのは、人としてレベルが低い! こんなに弱い自分はダメだ!」と、自分を批難し、追いつめてしまいます。

 こうなると、相手をますますゆるせなくなります。というのも、怒りを押し殺すことはあまりにも苦痛だからです。そして、そのような苦痛をあたえる原因となったのは、自分がゆるそうとしている人物です。結果的に、相手にたいする怒りはどんどん増し、怒りはやがて恨みや憎しみに発展してしまいます。

 このプロセスが最大のストレスの元で、長年こういうことが続くと人は病気(熱や頭痛や便秘、あるいはがんなど)として怒りを体に表面化さてしまいます。また、恨みや憎しみがやがて殺人のような悲劇に発展してしまうのは、自分の傷や恐れや孤独を癒さずに放っておいたためです。殺人を犯す人は脳の構造自体が違うのだという専門家もいらっしゃいますが、それは真実ではありません。適切な癒しをほどこさなければ、だれでも殺人を犯す可能性があり、他人事ではないのです。

 また、ゆるせないでいる自分を批難することは波長を下げます。

 他者を批難すると波長が下がり、その波長に見合った出来事や人を引き寄せるとたくさんの本に書かれています。しかし、自分を批難することも、他者を批難するのと同じぐらい波長を下げます。ほんとうのゆるしを起こすためには、相手への批難を生み出している怒りを癒す必要があるのです。怒りを押し殺すほうがよっぽど、波長を下げてしまいます。
 
 ほんとうに必要なのは、相手ではなく、まず自分を受け入れ、ゆるすことです。

 受け入れる、というのは、「殺してやりたい」とか「ゆるせない!あんなやつ死ねばいい」という感情であっても「そうか、それだけ傷ついたんだよね。君にとってはそれだけの出来事だったんだよね。無理もないよ。ほんとうにそれだけつらかったんだよね」と言ってあげることです。

 このくだりは「もし殺意を覚えてしまったら?」のテーマに解説しているので、よかったら参考にしてみてください。 
 
 ツール・相手にどうしてもらいたかったか?
 

では、クラクションの例に戻って解説します。乱暴にクラクションを鳴らすかわりに、わたし達は相手にどうしてもらいたかったのかを具体的に考えると、感情を静める効果を得られることがあります。例えば、乱暴に鳴らすかわりに、おだやかに鳴らしてほしかった、といった具合です。

そうね、穏やかに鳴らしてほしかったわよね。


このように自分に共感してあげてください。相手に具体的にどうしてほしかったのかを考えることで、怒りのなかに埋もれていた感情、主張(心の叫び)に耳を傾けることができます。


というのも、怒りを覚えるような出来事が起きたばかりのとき、人は頭のなかが真っ白になってしまいます。適切な癒しのワークをしないまま怒りを放っておくと、怒りのなかにある傷や寂しさや恐れだけでなく、心の叫びなども埋もれてしまうのです。


そういったことが長年の習慣になり、消化されていない怒りがためこまれると、それはときに病気という形になって浮上してきます。自分の感情に耳を傾けないことはそれほどの悪影響があるということです。


また、クラクションの例で言えば、乱暴にクラクションを鳴らした相手は今ごろ、もうどこか遠くを走っていて、穏やかに鳴らしてほしかったのよ!と訴えたくてもできないでしょう。こういったことは日常的によくあることだと思います。


相手に言うべきことを言えなかったという怒り、悔しさにたいしても耳を傾け、共感してあげることが大事です。


言いたいことを言えなかったことがすごく悔しかったのよね。無理もないわよ、そういうときってあるわ。そういうときって苦しいわよね。


相手に実際どうしてもらいたかったのかを冷静に観察するようになると、その場にふさわしい自己主張の練習にもなります。たとえば、いつも帰りの遅い夫に沈黙で怒りを表現するとか、親の対応に怒鳴り声をあげるというのではなく、「もっとあなたと会話がしたい、一緒に過ごしたい」とか、「もっと自分のことを理解してほしい」といったように、言い合いではなく、話し合いができるようになります。


とくにこのツールは、感情的になってしまったときに、物を壊したり、あるいは他者に手をあげてしまう習慣がある人にとって、重要なワークになると思います。このようなタイプの人は、自分の考えていることや感じていることを言葉に表すことが苦手なので、近親者となにか言い合いになったときに、言いたいことを言えないもどかしさが最大のストレスとなります。そのストレスが物を壊す、手をあげるということになってしまうのです。


 感情的になったときは、ひとりになれる時間や場所を作り、このワークをしてみてください。「自分はなにに対して傷ついたのか、寂しいのか、恐いのか、それを相手にどうしてもらいたいのか? ただつっぱねてもらいたいか、あるいはその孤独や恐れを理解して、見守ってもらいたいのか」そういったことを冷静に、客観的に観察するのです。


ちなみに、日記をつけるのも自分の考えていることや感じていることを言葉にする練習になります。とくに、なんでもない日常を綴るよりも、今日自分がなににたいして腹が立ったのか、傷ついたのか、実際はどんな風に接してもらいたかったか、そういったことです。これまで紹介してきた感情を静めるツールを参考にしてみてください。



 わが子を愛せない・親子のあいだに共通する恐れ(信念)
 
 前回、必要のない信念を手放すためのツール、「あなただからそんな目に遭ったのではない」を紹介しましたが、今回は親子関係についてすこし解説します。 

 わたし達は自分の親を選んで生まれてくる、というのはたくさんの本に書かれていることです。前世から引き継いできた恐れ(手放すべき信念)を手放すためには、その親が最適だからです。

 たとえば、前世で「自分は愛されない存在だ」という信念を持って生き、そのままその信念を手放すことなく他界すると、今生でその信念を引き継ぐことになります。そのような信念が根づいていることに気づかなければ、手放すことができないので、気づくことができるようなことをしてくれる親を選ぶということです。

 もし「自分は愛されない存在だ」という信念に気づかず、結婚して子供を産んだ女性がいるとします。そのような女性は自分の子供にたいして、すなおな愛情表現することが苦手です。というのも、自分を愛していない人は、他者の愛を信じることができないからです。

 
 わかりやすくいえば、自分は愛されない存在だと根底で信じている人は、他者から好意をよせられても、「まさか、自分を好きになる人なんているわけない」とか、「どうせ騙そうとしているのだろう」というように意識的にも無意識的にも捉えてしまいます。ときには、「自分を好きになるなんて、この人はバカだ」と見下ろし、冷酷な言動をとり、ほんとうに相手が離れていってしまうというようなことさえあります。

 子供は親にたいして100パーセント無条件の愛をもって生まれてきますが、この例のような女性はその子供の愛さえも信じることができません。具体的にいえば「どうせこの子はいずれわたしを置いていく」「こんな母親のわたしなんて、愛されるわけない」という気持ちが、無意識的にも意識的にもあります。そのような気持ちが根底にあるので、愛情表現もそれに沿ったものになります。なので、子供も成長するにつれ、自分は愛されないのだ、という信念が根づくようになってしまうのです。

 つまりここでも、同じ信念(恐れ)同士がお互いを引き寄せあうという法則が働きます。母親は「自分は愛されない存在だ」という恐れがあり、そんな母親のもとに生まれてくることで、子供は自分のなかにある「自分は愛されない」という恐れ(信念)を手放すチャンスを得られるのです。

 もちろん親だけでなく、兄弟や姉妹、親友、恋人や夫婦といった関係にも、その法則が適用されます。これは、お互いひとつのゲームでプレイしているようなもので、ひとりが共通した信念を手放すと、ゲームから一抜けるというようなことが実際起こります。

 信念を手放すためのツール・あなただから、そんな目に遭ったのではない

 とくに幼少時代、愛を感じられない出来事を繰り返し経験すると、人は「自分だからこんな目に遭うのだ」という考えを無意識的にも意識的にも、自分のなかに刷りこんでしまうようになります。それがこのテーマで繰り返し登場する「信念」というもので、その信念を手放さないかぎり、大人になってもそれを投影するような出来事を繰り返し、創造してしまうことになります。

となると、いわゆる引き寄せの法則に乗っ取って愛に溢れる家庭をイメージし、思考の段階でワークをしたとしても、思考のずっと奥に根づいている「どうせ自分は愛されない」という信念が願望の現実をブロックするということが起きてしまうのです。

 今回はそういった必要のない信念を手放すためのツールのひとつを紹介します。 
 
 あなただから、そんな目に遭ったのではないというツールです。

 クラクションの例でいうと、「取るに足らない存在のように扱われた、ように感じた」と答えた場合、幼少時代、両親や兄弟といった近い存在からそのように扱われていた、そのように感じられるような愛情表現で育てられたということがいえます。たとえば、いつも粗末な服や食べ物をあたえられていた、あるいは虐待を受けていた、お前なんかそんなことできるわけないと繰り返し言われた、というような類のことです。

 知識や経験に乏しい子供がこのような出来事を繰り返し経験すると、世界は自分をこのように扱う場所なのだと思うようになります。そして、その先なにかつらいことが起こるたびに「自分が悪いからだ」とか「自分にそのように扱われる原因があるのだろう」と、自分を批難し、自己嫌悪を繰り返すようになってしまいます。しかし、真実は

 その人はほかの子供にも、同じようなことをした、ということです。

 あなたじゃなく、ほかの子供だったとしても、その人はあなたにしたようなことを、その子にしたのです。その人がうまくあなたを愛せなかったのは、あなたに原因があるのではなく、その人なりの問題があってそのようにしか愛せなかった、ということです。

 まずこのように自分に声をかけてみてください。

 子供のころに繰り返しつらい出来事を経験すると、人というのは自分が悪いからそういうことが起きたんだ(されたんだ)、って思ってしまったりするの。でもね、あなたはなにも悪いことしていないのよ。
 その人はあなたじゃなくても、ほかの子供にも同じことをしたの。だから、あなただからそんな目に遭ったんじゃないってこと。
 あなたはそんな風に扱われていい存在(取るに足らない存在のように扱われていいわけではない)ではないわ。そして、そういう出来事を経験したからって、あなたは「自分は愛されない存在なんだ」って思うようになってしまったけど、それはすべて幻想だったの。子供だったから、そうなんだって信じてしまっただけで、だからといって今も信じつづけなければいけない、ってことはぜったいにないの。
 外側で起きる出来事と、あなたが愛されるか愛されないかは関係ないの。あなたは大切に扱われて当然の人なのよ。
 どんなことが起きても、あなたは100パーセント無条件に愛されている存在なの。


 このように深い共感をともない、自分に優しく声をかけることは、癒しだけでなく、肯定感や安心感も起こします。また、自分にたいする共感的な声がけは感情の当事者(感情にのみこまれてなにも見えなくなっている状態)ではなく、一歩下がって過去の出来事を冷静に観察する立場になることができます。

 自分だからあんな目に遭ったのだ、という意識が根づいていると、ふだんの生活でもいろいろな不快な出来事を個人的に捉えてしまうようになります。これこそが一般的に被害妄想と呼ばれるものですが、「自分だからあんな目に遭ったのではない」と幼少時代のことを意識的に気づけるようになると、ふだんの生活でも以前ほど、外側の状況を個人的に捉えることが少なくなってくると思います。思考の奥にある信念が変わると、捉え方も自然に変わってくるからです。

 もちろん、その幼少時代の出来事による怒り、その怒りのなかにある傷や寂しさや恐れを掘り起こし、癒す必要もあります。感情を癒すワークと、信念を手放すワーク、両方が大事です。

 
 なぜか裸になっている

 ふつうに街を歩いていたりするのだけど、なぜか自分だけ裸だったりする夢を見ることがあるとします。そのときの反応によって、「他者にたいして自分がどのように心を開いているか」の目安になると思います。

 たとえば、恥ずかしい思いをしていたら、自分がほんとうに感じていることや、考えていることを他者に知られるのが恥ずかしいとか、恐い。逆に堂々としていたら、どんな姿を見られても自分は愛される存在だと、自信がある人かもしれません。

 守護天使やハイヤーセルフといった存在がなにかメッセージを伝えているとしたら、「自分の考えていることや感じていることを他者に見せなさい。」 裸で歩いていて、まわりの人たちが平然としているのなら、「あなたが思っているほど、自分をさらけだすことは危険ではない。」 

 あるいは、自分の知り合いがまわりにいて、自分だけ裸になっていて、その人たちがなにごとも起きてないかのように振るまっていたら、「あなたと親しくしている人たちは、あなたが恥ずかしい、弱いと思っている部分を見せたとしても、それまでとなんら変わりなく接してくれるでしょう」という意味にとれます。ただ、これは「あなたのそういった部分を見て見ぬふり、関わらないように過ごしている」という意味にもなりえます。しかし、夢の雰囲気で、どちらかわかると思います。


 噛み切れないスパゲティ

 もう何年も前に見た夢です。薄暗い部屋のなかでひとりテーブルについて、スパゲティを食べているのですが、噛んでも噛んでも噛み切れないのです。麺の一本一本がゴムのような触感で、ずっと噛みつづけているという夢でした。

 なにか噛み切れない想いがあったんでしょうね。

 噛むことができず、食べ物がお腹まで届いて消化できない。どうも理解できない、とか、納得できないとかそういった心理をあらわしているのだと思います。これは、食べ物を食べているのに、喉を通らないというような夢にも同じような解釈ができるかもしれません。

 ただ、布団の端を噛んでいるときに見ることがあるかもしれないですが。

 

 


 信念を手放すためのツール・物語を手放す

 幼少時代、愛のない出来事を繰り返し経験すると、子供は物語(信念)を作り出してしまいます。たとえば、虐待を受けたから、自分は愛されない存在なのだ、というようにです。このように物語を作る習慣ができあがってしまうと、大人になっても、「こういうことが起きたから自分は愛されない」というように、外側の出来事によって、愛されるか愛されないかの判断をくだしてしまうようになります。

 たとえば、「恋人が自分の元を去った」、だから「やっぱり自分は愛されることのない人間なんだ」というようにです。わたし達はこのように、さまざまな物語を幼少時から作っていて、大人になってなにかつらい出来事があると、その物語をさらに強化させていってしまいます。

 そういうわけで今回は、物語を手放す、というツールを紹介します。まず、自分に以下のように優しく、深い共感をともないながら声をかけてあげてください。
 
 あなたはその出来事によって、(手放すべき信念、たとえば自分は愛されない)って思い込んでしまったのよね。あまりにも衝撃的な出来事だったから、そういう物語を作ってしまって、信じてしまったの。そして今まで思い出すたびに、そうなんだってますます思い込んでしまったのよね。すごくつらかったと思うわ。それに恐くて、とても寂しかったわよね。

 でもね、もう終わったのよ。その出来事が起きたからって、あなたがそんなことを信じなくちゃいけないっていう理由はひとつもないの。だって、その物語はすべて幻想だったんだから。
 あなたは生まれる前から、そしていつか肉体を離れるときがきても、永遠に100パーセント無条件に受け入れられていて、愛されている存在なのよ。これが真実の物語なの。あなたにふさわしくない物語(信念)はもう手放しましょう。


 もし手放せるかどうか不安になったり、自信がなかったとしたら、

 これからもそんな信念を持っていたい? これからもそんな物語を繰り返したい?

 このように自分に優しく尋ねるのも、ふさわしくない信念を手放す勇気を出すのに効果的です。けっして、批難したり、叱ったりしないでください。

 そうね、今まで慣れ親しんできた物語を手放すのって、すごく恐いことよね。新しいことに一歩踏み出すのって、とても勇気がいるもの。でもだいじょうぶ。ひとりじゃないんだから。わたしと一緒にやりましょう。きっとうまくいくわ。

 このように声をかけたあと、手の中に必要のない信念を握りしめ、それを思いきりもうひとりの自分と一緒に空や海など、自分の好きな場所へ放り投げている、あるいは天使のような存在にその信念をすぅーっと持っていってもらうようなイメージをするといいと思います。うまく投げられるかどうかは関係なく、あなたがその信念をもう手放したいのだという強い気持ちがあれば十分なのです。

 実際に紙にその信念を書き出し、放り投げるという方法もあると思います。この過程は個人で想像力を膨らませ、楽しんでできればいいかもしれません。

 このように自分の感情(恐れや不安)にひとつずつ寄り添いながら、ワークをしてください。決して叱ったりすることなく、無理強いすることなく、自分を優しく見守ってあげてください。

 たった1日でひとつの信念を100パーセント手放すのは難しいと思います。しかし繰り返しワークをすることで、「そうか、あれは自分で作りあげた物語だったんだ、もう終わったんだな」と気づけるようになってくると、現実にもそれが反映され、変化を感じはじめると思います。