ペペロミア・プテオラタ
今年の5月に100円ショップで買ってきたペペロミア種のプテオラタ。家の外の半日陰のところに置いておいたら、葉っぱも大きくなり茎も伸び、そこそこ育ちました。直射日光には当てないほうがいいみたい。寒さにはあまり強くないのでもう少ししたら家のなかに移動だね。。
このような眠りを経験している人がいるかもしれません。夜中になぜかぱちっと目が覚めるのだけど、眠くてしかたない。その眠たさはすごく重くてねばっこい。眠りに戻ろうと思うのだけど、なんだか嫌な気持ちになる。眠れそうで、眠れない。このまま眠ると、気持ち悪い夢を見るか、なにか嫌なことが起きそうな気がする。いったん、しっかり目を覚まそうとするのだけど、まとわりつくような眠気でつらい。そして、部屋の空気がいつもと違う。なにかいる気がする。
こういうとき、います。あんまりよくないほうの存在です。生霊も考えられます。そういうときは起き上がったりしてしっかり目を覚まし、手を叩いて邪気を払い、守護天使などに守ってもらうようにお願いするといいと思います。あと、夢のなかで悪霊に遭遇したときの記事に書いた対処法を参考にしてみてください。
ちなみに、このような状況になったまま眠ってしまうと、金縛りに遭いやすくなると思います。
前回は自分に罰をあたえるしくみ、そして罰という概念が愛に基づいていないこと、人は痛い思いをしなくても成長することができる、ということを解説しました。今回は、自分に罰をあたえるような習慣のある人が幼少時代の出来事によって、失敗をしなければ愛されたかもしれない、という強い感覚が根づいていることについて解説します。
条件つきの愛のもとでおこなわれる後悔、でも書いたように、失敗=愛されないと思えるような対応をされ続けた子供は、優秀だったら愛されるという物語にとらわれるようになってしまいます。そういう子供は大人になるにつれ、失敗をひどく恐れたり、完ぺき主義になったります。とにかく、彼らにとって失敗はゆるされないことなのです。
そういう人は外側の状況によって、愛されるか愛されないかという裁きを行い、ときには親がしたような罰を自分にあたえます。そういう傾向が強くなりすぎると、自殺に繋がることもあります。自殺も自分に罰をあたえる方法のひとつです。
まず、幼少時代、親が自分の失敗にたいしてある対応をくり返してきたからと言って、大人になったあなたが今でも、彼らのやり方を自分に課さなければいけない理由はどこにもないということを知ってください。彼らもあなたと同じように、まだまだわからないことが多いひとりの人間だったのです。彼らのやり方が絶対的に正しかったと言えないのであれば、あなたは今、自分の生き方を選ぶ自由があるということです。
自分が優秀じゃなかったから愛されなかった、という物語を手放し、自分の行動によって愛されるか愛されないかという裁きや罰がもう必要ないということを知ることが大事です。わたし達はひとりひとり、つねに無条件に受け入れられ、愛されている存在です。そして完璧な人はこの世にひとりもいないということを知る必要もあります。もし完璧であれば、キリストやブッダのように地球を卒業し、人間をサポートする役目に回ります。
ちなみに、失敗=愛されていない、というような対応をしてきた親は、ほかのやり方があるということを知るチャンスがありませんでした。彼らも自分の親にそのような対応をされています。とくにインターネットや携帯電話もないような時代では、育児にかんする本も簡単に手に入らなかったと思います。彼らは自分の子供を育てるために、これがベストな方法だ!と信じ、それがどれほど子供を傷つけることになったかわからないながらも、「この子のために、これだけ厳しくしなければいけない」という気持ちでやっています。
残念ながら、そのやり方はあなたにとって望むような形ではなかったけれど、彼らなりの愛情表現だったということを知るのは悪くないと思います。
(今回のテーマで、なにをしてもゆるされる、というくだりに、なにをしてもゆるされるというのはどういうこと? じゃあ罪はどう償うんだ?と疑問に思った人は多いと思います。この地球の罪と罰の概念にもとづく償い、賠償金や裁判や刑に服す、というのは皆さんが知っているとおりです。今後、この地球の三次元的な概念ではなく、宇宙的な概念ではゆるす、ゆるさない、罪と罰、償いといったことがどうなるかを「カルマの法則は幻想」というテーマでアップする予定です。)
自分に罪をあたえるしくみ
前回までは、後悔と反省の違い、反省のなかの重要なプロセスについて解説してきました。今回は、自分に罰をあたえるしくみについて解説します。
幼少時代、なんらかの失敗(お皿を割ってしまう、学校の成績が悪いといったこと)をしたときに、「お前みたいなやつは食事をあたえられる価値などない」と言われ、実際に食事をあたえられなかったとします。そのような対応をされ続けた子供は大人になると、なんらかの失敗(仕事でミスをする、人間関係でうまくいかないといったこと)をするたびに、自分に食事をあたえない、家に帰って食べようとしていたデザートを処分する、あるいは粗末な食事をするといったようなことをします。
うまくやれない自分が嫌い、だから食事をあたえない、(うまくやれない自分は愛されないという親の判断、そして食事をあたえられる価値がないという対応を自分自身がやるようになる)という構造です。自分にたいしてそのような対応をするので、外側でも同じような状況を創造します。たとえば、飲食店に入って、頼んだものの質が悪い(冷えて硬くなっている、など)ということが起こります。
そしてもうひとつ、人は罰をあたえられなくても成長できる、という新しい考えを取り入れることも大事です。痛い思いをしなければ人は成長できない、というのも、同じく人間のエゴが作り出した、ただのとらわれです。これらは恐れにもとづいているので、恐れしか生み出しません。恐れは人々のなかで批難や議論や対立、恨みや憎しみといった感情を起こします。たとえば死刑制度が愛にもとづいているなら、議論や対立が起こり、人々がバラバラに分離することはありません。逆に、愛は人をひとつにします。
また、罰は復讐の概念に似るところがあるのと、他者を自分たちの思う人間に変えようとする、コントロール(支配)もあります。これらも愛にもとづいていません。わたし達は現在、このような古いやり方や概念を手放し、愛にもとづいたものを選択するときに来ています。
この世に、罰をあたえられていい人はひとりもいません。ひとりひとりがそのときの知識や知恵や経験を総動員して、ただベストを尽くしています。
前回は、後悔とは対極にある反省のプロセスについて解説しましたが、なにをしても自分はゆるされる、愛されている、ばんざいで終わるわけではありません。それだけで終わると、同じ失敗を永遠にくり返すことになるからです。なので今回は反省の一番重要なプロセスについて解説します。
重要なプロセスというのは、自分がどうしてそのようなことをしたのか、原因となっている信念を探ることです。もし、同じようなことはもうしないと省みる、いさぎよく非を認めて相手に謝罪する、というだけで、自分の行動を投影している原因を探らなければ、これからも同じようなことをくり返します。
たとえば不倫を繰り返す人がいるとします。自分も相手側も傷つくことがあります。本人がもう自分はこのような恋愛を繰り返したくない、ひとりの人に誠実に愛され、自分も同じように愛せるようになりたい。そのように人生を変えたいのであれば、不倫を繰り返してしまう原因となっている根っこを処理する必要があるのです。
引き寄せの法則にもとづいて、あたたかな家庭をイメージし、ダブルベッドの半分のスペースで眠るようにしたとしても、自分のなかに「愛されるわけない」という信念が根づいているのであれば、願望実現はブロックされます。引き寄せの法則にもとづくワークは、思考という表面をいじるだけにとどまり、思考のずっと奥にある絶対的な信念にまでおよばないからです。「愛されるわけない」という信念を手放さないかぎり、「愛されるわけない」と思えるような恋愛をくり返します。
不倫については今後詳しくアップするつもりなので、
ここでは完結に説明します。不倫をする人は、幼少時代の出来事で「自分は一番に愛されることはない」というような信念(これだけではありません)が根づく
ような出来事を経験しています。そういった出来事で埋もれたままになっている傷、恐れ、寂しさを癒し、自分がそのような物語(幻想)を作り出してしまったこと、今でもそれを信じ続けていることに気づく、といったような、信念を手放すワークをしなければ、これからも同じことをくり返してしまいます。
自分がいつもくり返したくないのにくり返してしまうこと、出来事について、客観的に観察し、なんとなく浮かんでくる幼少時代の出来事をヒントにしみてください。なんとなく浮かんでくることには、必然的な意味があるので、必要のない信念を手放すのに役にたつはずです。
(感情を静めるためのワーク、信念を手放すためのワークはテーマ別に取りあげているので、よかったら参考にしてみてください。)
前回は、条件つきの愛のもとで行われる後悔について解説しました。今回は、後悔とは対極にあるプロセスを反省という言葉を使って、解説します。
反省には、愛されるか愛されないかという判断が伴いません。あなたがどんなことをしても、愛される存在であることに変わりはないということです。失敗=自分、ではないのです。
つまり、反省は、無条件の愛のもとで行われるプロセスです。そして、反省というプロセスが無条件の愛のもとで行われるのであれば、罰はともないません。罰という概念は愛に基づいていないからです。罰というのは人間のエゴが作りだした概念で、高次元の世界には存在しません。
たとえば、母親が大事にしていたお皿を割ってしまったとします。子供は落ちこんでしまっています。「しかたないじゃない。だれでも失敗することってあるのよ。わたしだって、お皿ぐらい割ったことあるわ。だれでもみんな、そういうことってあるのよ。それに、お皿を割らないように、あなたはあなたなりにベストを尽くしたじゃない。でもうまくいかないことって、あるのよ。」
このようなやり方は、子供と失敗を分けています。失敗によって、子供の存在価値が決まるわけではないし、愛されるか愛されないかという判断もともないません。また、お皿を割ること=悪いこと、という公式もありません。悪いことをしたと決めつけられてしまったら、子供は自分が悪い子だから愛されないという物語を作るようになってしまいます。そういう人は大人になって、犯罪に関わるようになることもあります。悪い自分を演じる(悪い子という物語を自分で再現する)ということです。
上にあげたような対応を繰り返されてきた子供はどんな失敗をしたとしても、自分で自分をゆるす(人間は完璧ではないのだから、そういうことってある、というように)ことができるようになります。大人になると、会社でミスをしようと、恋愛でたくさんの人にふられようと、自分を罵ることはありません。外側の状況によって、自分が愛されるか愛されないか、と裁くことがないのです。こういう人は同じように、自分や他者の失敗を愛の目で見ることができる人を引き寄せます。
ちなみに前回、失敗=愛されない、というような叱り方をする母親を例にとって解説しましたが、もしこの母親が今あげたような叱り方を自分の母親にされて育っていたなら、子供に「お前はグズだ、疫病神だ」などとは言わないはずです。その母親も同じように育てられ、そのような叱り方しか知らずに親となっているのです。彼女はそのときの経験や知識や知恵を総動員して、ただベストを尽くしています。
条件つきの愛のもとで行われる後悔
今回は、後悔と反省の違いをこのブログならではの角度から解説していくので参考にしてみてください。
たとえば、過去になんらかの過ちと思えるようなことをしてしまったとします。そんなことをした自分はゆるされない、愛されない、受け入れられないというように、今でも自己嫌悪に陥り、自分を責めさいなんでいるとします。このようなプロセスを後悔という言葉で解説します。
後悔は条件つきの愛のもとで行われるプロセスです。
献身的な夫であれば、貞淑な妻でいれば愛される。不倫をする人は愛されない。このように、行動によってその人が愛されるか愛されないか、という判断がともないます。
そして、後悔には罪悪感がつきまといます。
強い罪悪感は自分を罰するような出来事を引き寄せます。具体的にどんなことかというと、ひとりひとりの罰のイメージによって異なると思います。罰=身体的にも精神的にも痛い思いをする、というイメージがあるのであれば、そのような出来事です。
これは幼少時代、なにか失敗をする=愛されていない、と感じられるような対応を両親にされてきた人に多い傾向です。このような人は、大人になってもさまざまな出来事=こんな自分は愛されないという判断を下すようになってしまいます。
具体的な例をあげます。たとえば、母親が大事にしていたお皿を割ってしまったときに、「お前はどうしようもないグズだ、疫病神だ、この皿を買うのに私がどれだけ働かなきゃいけないのかわかるか?」などと言われると、子供は「自分は親にとって役に立たない迷惑な存在であり、必要とされていない、生きているだけでただのお荷物なのだ」と思うようになります。こういうことが繰り返されると、それはやがて信念となり、子供のなかに根づきます。
そういった子供が大人になると、会社でもミスを連発し、上司や同僚の足を引っぱり、煙たがられるという存在になります。上司や同僚は影で、あるいは聞こえるように「あいつはどうしようもない疫病神だ、あいつのせいで俺たちは残業続きだ」などと言われます。結婚して家庭を築いたとしても、配偶者や子供から尊敬されず、ときには家のなかの厄介者や批難の対象として扱われ、居場所を感じられないという状況に陥るかもしれません。
本人としては、仕事でミスをするたびに「自分はどこにいても役に立たないお荷物だ」というように思います。このように自分の内側で起こしていることは、外側に反映されます。もし自分の失敗を愛の目で見ることができるようになれば、外側でもそれに見合った変化が起こります。幼少時代に培われた物語(信念)は残念ながら、それを手放さないかぎり、会社や人が変わっても同じような物語を繰り返し創造することになります。
あるいは逆に上司という立場になったりすると、部下のミスにたいして執拗なほどに威圧し、追いつめるような叱り方をしてしまいます。また、このような上司も引き寄せます。自分に厳しければ厳しいほど、それと同じぐらい厳しい人が磁石のように引き寄せられるからです。
ちなみに、今あげたような上司のタイプに現在悩んでいる人がいるとしたら、自分自身の内側を観察してみてください。あなたはその上司と同じような接し方を自分にしているはずです。
5年ぐらい前に見た夢です。うす暗い教室のなかにいて、教壇のちかくに教師のような人がふたりぐらいいました。ひとりがこれから自分たちが入学する学校について話をしています。「これからあなたたちは、新しい学びを始めることになる、この学びはとても難しいものだ」というようなことを言っていた気がします。
あたえられた教科書を見ると、それはあまりにもレベルが高く、こんなレべルの学校に自分が入学していることにびっくりし、信じられない気分でいました。すると、ほかの席についていた人たちがどんどん立ち上がって、教室を出ていくのです。わたしは呆然とした気分で、出ていく人たちを見ていました。
それからこの5年はいろいろあり、ジェットコースターのようでした。かなりきついなと思える経験をする なかで、「あぁ、わたしもあの教室を出ていく人たちの一人なのだな」と思ったものです。しかし、失敗や挫折を含めたすべてが、あの夢のなかの学校に入学したことだったんだな、と今になってわかります。
ひとりひとり入学式にたいするイメージは違ってくるので、夢の解釈も異なってきます。入学式=新しい世界の始まり、というイメージのある人は、「もうすぐ新しい人生の段階に入るよ」という守護天使からのメッセージになるかもしれません。
このような記事を探していて、ここに辿りついた人がいるかもしれません。最近、視界に光が見えたような気がして、でもだんだん明らかに光っていて、病院に行っても異常はないと言われる。そんな状況を経験している人たちです。
わたしが話しているのは、天使の光ではありません。
それは、自分のエネルギーの光です。目を閉じても、見えるのであればそうです。だいたいは白や青、人によっては紫や赤といった色も見えるみたいです。
つねにそういった光が見えているのだけど、目をぎゅっと閉じたり、目をこすったり、立ちあがったりしたときは、電磁的にたくさん光ります。たとえるとすれば、宇宙の星の赤ちゃんが青い光として撮影されたものがありますが、それに近い状態です。とても美しく、こんなものが常日頃見えるのであれば、得したような気分になるぐらいです。
波長が高くなると、人は光を体に取り込みやすくなります。その光は脳内の松果体という場所に入るのですが、その松果体の前に眼球のレンズがあるので、視界で光が光ったように見えるのです。
そういう光が見えるようになる前は、長い微熱状態を経験することがあるかもしれません。人によっては、半年ぐらい続きます。頭の後ろ、肩、喉、首といったところがずっとだるい状態になります。光が見えるようになったら、それからもどんどんいろんな不思議な現象を経験していきます。

