遅れる夢

 ときどき見ていた、いやな夢です。修学旅行から帰ろうと部屋で荷造りをしているのですが、ほかの生徒たちはみんな荷造りを終えて出発しようとしています。わたしは急いでやっているのになかなか進まず、焦っているうちに、自分ひとりだけもう一泊することになるというものです。あるいは、寮で暮らしていたけど冬休みといった休みに入るので、実家に戻ろうと荷造りとかチケットの手配などいろいろな用事をしているのに、うまくそれらが進みません。そしてすでに休みに入っているのに、自分は寮に何日間か残らなければならなくなります。ひとりだけ取り残されるし、居たくもない場所に留まらなければならないという状況なので、夢のなかだけでなく、目が覚めて思い出しても憂鬱な気持ちになりました。

「急ぎなさい! じゃないと乗り遅れるよ」と説教されている夢なのか、あるいは「焦らずにあなたは自分のペースでやっていきなさい」ということなのか長いこと考えあぐねている間は、ずっとくり返しこの夢を見させられました。

 しかし、「居たくもない場所に居なくていいよ」という意味だとわかったとき、胸のつかえが取れたような感覚がしました。自分のやりたいことをやりなさい、というシンプルなメッセージだったのです。居たくもない場所でやりたくないことを続け、そこで自分の存在意義も感じられずに孤立感を覚える、でも今いる場所からひとり抜け出して唯一の道を進みたいという願望もある、そんな日々が夢にあらわれていたようです。そう解釈すると、あまりこの手の夢は見なくなりました。そして自分の考えがまた戻るようなとき、この夢を見させられます。

 イメージが散漫な夢にはあまりメッセージ性はないと思いますが、あまりにも鮮明で現実のように思える夢や、何度もくり返し見る夢にはメッセージ性があります。メッセージを解釈するとその夢は見なくなります。




 黒い蜘蛛がうじゃうじゃ

 何年も前に見た夢です。しかも初夢だったと思います。大きな黒い蜘蛛が押入れからうじゃうじゃと雪崩れるように落ちてくる夢でした。蜘蛛というのは不吉だと聞いたことがあるので少し気にはなってはいましたが、その年にこれと言ってなにか大きな悪い出来事というのは起きませんでした。もしわたしが悪いことが起きると強く信じて心配していたら、それに見合った出来事が起きたかもしれません。

 どうしてそのような夢を見たのかというと、おそらく自分の不安や心配や恐れが大きな黒い蜘蛛というものに象徴されたのだと思います。わたしにとって大きな黒い蜘蛛というのは、じわじわと追いつめてくるとらえようのない陰湿で不吉なイメージがあるからです。もし同じようなイメージを持っている人が蜘蛛と戦っている夢を見たとしたら、その人は現在自分のなかの不安や恐れと真正面から戦っているのかもしれません。

 夢の意味を知りたい人は、夢のなかの出来事やものにたいして自分がどんなイメージを抱いているか、また自分がその夢の状況のなかでどのような感情を抱いているかを観察すると解釈しやくすなります。

 ちなみに時間と空間を作り出したのは人間なので、高次元の世界には元旦とか初夢とかいう概念がありません。ただ初夢にはとても大事な意味がある!と信じている人は、守護天使といった存在にとってメッセージを伝えやすいのでメッセージ性のある夢を見せてくれると思います。
 嫉妬を糧にし、望む人生を創造する

 前回までは嫉妬のメカニズムや、嫉妬が恨みや憎しみに加速してしまう理由、嫉妬を認められない理由について解説してきました。今回は、嫉妬を糧にして望む人生を創造するために、特定の嫉妬を生み出している根っこ(信念)について解説します。

 まず、前回解説したように、相手にたいする嫉妬を認めること、嫉妬を感じていることを醜いなどと判断せず、愛の目で自分を見守ることが大事です。批難をすれば苦しみが生まれ、やがてそんな苦しみを与える相手にたいして怒りが倍増するという悪循環に陥ってしまいます。一番大事なのは、どうして自分がそれほどの嫉妬を感じてしまうのかという、根っこに辿りつくことです。根っこに辿りつかなければ、その場はしのげても時や場所や人が変わったときに、その根っこがまた同じような嫉妬を生みだします。

 もし、友人が理想的な人と出会って結婚し、とても愛されていて幸せなことにたいして激しい嫉妬を感じるのであれば、自分には同じような幸せを手にすることはできないだろうと強く信じている(嫉妬=恐れ)ことになります。もし自分が愛されることに自信があるのなら、友人にたいする嫉妬が恨みや憎しみなどに加速することはないでしょう。

 具体的な例をあげます。たとえば大好きだった父親(母親)が離婚のために家を出て、それっきり顔をあわせることがない、というような幼少時代を経験した場合、「自分なんか愛されない」という信念が根づくことがあります。

 上にあげた例の人が大人になり恋人ができた場合、彼らは恋人に依存する傾向が強くなります。というのも自分なんか愛されない、と思っているので、自分を愛してくれる人が現れたとき「この人しかいない!」と執着してしまうからです。同時に、愛されることに自信がないので「この人はいつか離れていく」という恐れ(父親が自分を置いていったという過去によって作られた物語)も伴います。そうなると恋人がちょっとでもほかの異性に目を向けただけで異常な嫉妬(恐れ)を感じてしまい、その束縛のために実際恋人が去っていく、というような展開をくり返すことになります。

 わたし達はこの地球上にいると、外側の出来事によって自分の価値を判断してしまいがちです。そして、自分なりのいろいろな物語(信念)を作りだしてしまいます。父親が自分を置いていった=自分は愛されないのだ、というようにです。とくに子供にとって親が去っていくことはあまりにも衝撃的な出来事なので、それによって自分はこうなのだああなのだと物語を作りだしてしまいます。
 
 しかし、すべてはあくまで外側の出来事であり、自分の内側の真実には関係ありません。父親があなたを置いていこうと、今でもそばにいようと、あなたは永遠に愛され、100パーセント受け入れられている存在、それが揺らぐことのない真実です。(このくだりは、ツール・物語を手放す、というテーマに詳しく書いてあります。)

 このように嫉妬を生み出している根っこ(幼少時代の出来事)に辿りつき、自分が作り出した物語がただの幻想であったことに気づく必要があります。そして、「自分なんか愛されない」という信念が根づくきっかけとなった出来事による傷や恐れや寂しさを癒すこともとても大事です。(感情を癒すためのツールを参考にしてみてください。) ここまでくれば、嫉妬を成長のため、また自分の望む人生を創造するための糧にできるようになります。今回の例にあげたAさんは自然とBさんにたいする執着がなくなり、自分の幸せを実現していくことに集中できるようになるでしょう。



 自分の闇を認めること

 前回までは、嫉妬を感じていることを認められないために、嫉妬が恨みや憎しみに加速してしまうこと、そして嫉妬を認められない大きな理由について解説しました。今回は、もうひとつの大きな理由について解説します。

 嫉妬を感じていることを認めるのが難しいのは、わたし達の世界では嫉妬=醜いというイメージが強く根づいているからです。なので、嫉妬を感じている自分は醜いということになり、認めるのに苦痛がともなうのです。しかし、嫉妬を認めないことで感情が加速し、相手のあら捜しをしたり、不幸を見つけては仲間と笑いあうというような行為に走ってしまうほうが、よっぽど自分にたいして醜いという評価をくだしてしまうかもしれません。

 また、嫉妬=醜いという概念が強く根づいていると、そんな自分は愛されないという気持ちに繋がってしまいがちです。愛されないこと、というのは人間にとってとても恐ろしいことです。なので人は自分が嫉妬を感じていることを隠そうとし、やがて嫉妬を感じていないフリをすることになります。しかしそれは、感情を殺しているのと同じなのでどこかで爆発します。とてもそうは思えないような人が突然、殺人を犯したりするのは感情を殺して生きているからです。

 この世のすべての出来事にはもともとなんの意味もなく、人間が良い悪いというように、意味や物語を与えています。自分にたいする批難を生み出すような概念は手放すことが大事です。批難は愛に基づいていないからです。嫉妬=嫉妬、それだけです。嫉妬=悪い、醜いというのは恐れを利用して人間を戒めるために作られた古い概念です。

 嫉妬であれ恨みや憎しみであれ、あるいは殺意でさえも受け入れてゆるすことが、無条件の愛に繋がります。受け入れることで癒しが起こります。認めなければ感情が加速して、実際に悲劇が起こります。「嫉妬という感情」でも書いたように、嫉妬も地球に存在することでしか経験できない、かけがえのない感情のひとつです。なので「人間ならだれだって、羨ましくなることってあるよね」と自分に共感してあげることが大事です。

 
 嫉妬が恨みや憎しみに加速するのはどうして?

 前回は具体的な例をあげ、人は激しい嫉妬を感じるとどのような行動に出てしまうのかを解説しました。今回は、嫉妬が恨みや憎しみへと加速してしまう原因について解説します。

 嫉妬が恨みや憎しみまでに加速してしまう大きな原因のひとつは、嫉妬を感じている事実を認められないことにあります。

 人はときに、対等だと思っている、あるいは見下ろしている人に嫉妬を感じるとき、それを認めるのが難しいことがあります。それは、わたし達の世界では勝ち負けとか、優劣といった価値観で人や状況を判断することが習慣になってしまっているからです。そうなると、嫉妬を感じること=相手に負けるという判断が意識的にも無意識的にも行われます。

 相手が自分よりも優れた資質や人生を所有していることを認めることになる、それは自分の負けを意味するということです。この地球の世界では負けを認めるのには苦痛が伴います。負け=自分は相手よりも劣っている、そして負けるのは格好悪いとか惨めとかいうイメージがあるからです。

 なので、人は嫉妬を感じていることを認めないかわりに、相手のあら捜しをしたり、ちょっとした不幸を見つけては自分や自分の人生がその人よりも勝っていることを証明しようとします。それらの行動を一番納得のいく表現であらわすとすれば、自分にたいする慰めです。

 若くして事業に成功し100万の家賃のマンションに暮らす人や、理想の人と結婚している友人を見たときに「あぁ、うらやましい。自分も同じようになりたい。」と嫉妬を認めてしまえば、同じようなものを手にするにはどうすればいいかと具体的に考える方向に向かえます。

 また素直に認められれば相手に直接「あなたと同じようなものを手にするにはなにをすればいいのか?」と聞くことができるかもしれません。ウィル・スミス主演の「幸せのちから」では、主人公が高級車に乗っている人に同じような質問をするシーンがあります。あのような質問ができた時点で彼はすでに、自分の人生を望みどおりに変えていく力を手にしたのだなと思います。

 もし嫉妬を感じていることを認めなければ、嫉妬が加速して嫌がらせのような行為に発展してしまうでしょう。前回のAさんはあのままいけば、Bさんにたいしてそのような行為をするようになるかもしれません。最悪の場合、殺人が起きてしまうこともあります。嫉妬が殺意にまで発展するのです。

 だから勝ち負けという概念を手放せ、なんて言いません。そんなことをしようとしても、大体は嫉妬を感じていない自分を演じることになるからです。感情を殺すだけでは問題解決にならないのです。「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」という問いの答えを後ほどアップしますが、次回は嫉妬を認められないもうひとつの理由について解説します。
 嫉妬に人生を乗っとられてしまうとき

 前回は、激しい嫉妬が生まれるメカニズムについて解説しました。今回は、嫉妬という感情に人生を乗っ取られてしまうケースを取りあげます。

 たとえば、AさんとBさんという女性がいます。ふたりは同じ会社の同僚で、部署も同じです。しかしBさんは理想の男性と結婚し、もうすぐ会社を辞めて専業主婦をすることになっています。お腹のなかには4ヶ月の子供がいます。そのことにたいし、Aさんは激しい嫉妬を感じてしまいます。

 以来、AさんはBさんと顔をあわせるたびに、「女も経済的に自立しているべきだよね」というような皮肉や嫌味を言うようになってしまいます。またBさんのあら捜しをするようにもなってしまいます。たとえば、Bさんが仕事でミスをすると仲間と嬉しそうに目配せをする、Bさんのちょっとした不幸や不運、たとえば通勤途中で車に泥水を引っかけられてスカートを汚してしまったとか、前髪を切ったけど失敗してしまったとか、そういったことを見つけてはほかの同僚と笑いあう、悪口を言うようになってしまいます。ほかにあげるとすれば、Bさんからの嫉妬を得ようとすることもあるかもしれません。たとえば、ほかの同僚と高級レストランに行って楽しい思いをしたことなどをBさんに自慢するように話す、というようなことです。これらのことを実行しているとき、Aさんはとても満足した気分になれます。

 しかし一方で、ほかの部署の人がBさんに「結婚おめでとう。無事生まれるといいね」と言い、Bさんが幸せそうに話しているようすを見ると、Aさんは煮えたぎるような嫉妬を感じてしまいます。なのでさらにBさんのあら捜しや不幸探しをしてしまう、という悪循環をくり返します。

 この時点で、Aさんの人生は嫉妬に乗っとられてしまっている状態です。他者の幸不幸によって、自分の人生の幸不幸が決まっているからです。自分の幸不幸の軸を失っているのです。高級レストランに行きたいわけでもないのに、Bさんからの嫉妬を得るための行動にも同じことが言えます。自分がしたいことではなく、相手がそのことで嫉妬をするかどうかという基準になってしまっているのです。
 
 やがてAさんはあるとき、Bさんがフェイスブックを利用していることを知ります。そこには婚約者の男性と仲良くハグしあっている画像があります。Bさんがフェイスブックを利用していることをAさんは知らされていなかったうえに、そのような画像を見てしまったことで、彼女にたいして恨みや憎しみにちかいほどの嫉妬を感じていることに気づき、自分でもびっくりしてしまいます。Aさんは、Bさんの結婚がうまくいかなくなればいいとか、あるいは今お腹のなかにいる子を流産してしまえばいいとまで思ってしまったのです。

 次回は、Aさんがどうして恨みや憎しみにちかいほどの嫉妬を感じるようになってしまったのかを解説します。



 はげしい嫉妬のメカニズム

 前回は嫉妬が地球上で生きているかぎりなくならない自然な感情であり、怒りや寂しさと同じように、地球にいることでしか経験することのできない、かけがえのない感情のひとつであるということを解説しました。今回は、激しい嫉妬のメカニズムについて解説します。

 嫉妬には「うらやましいなぁ」と思う軽いものから、相手の不幸を願ってしまうほどの恨みや憎しみに近い、激しいものまであります。軽い程度のものなら簡単にやり過ごすことができますが、激しいものになると苦痛が生まれるだけでなく、生活に支障が出てくることもあります。

 具体的な例をあげます。たとえば、「奥さん、わたし今日あの店の特売で1本50円の大根買ったんですよ」と言われて、死ぬほどうらやむ人はいないと思います。

 しかし逆に、若くして事業で成功し、1ヶ月100万以上する家賃の高級マンションで暮らしている人を見たとき、大きな嫉妬を感じる人はたくさんいると思います。また、ほかの例をあげるとすれば、親しい友人が理想的な人と出会い、幸せな新婚生活を送っていることにたいし、激しい嫉妬を感じて連絡を取ることもできなくなってしまうというようなケースです。そういった激しい嫉妬がときには恨みや憎しみにまで発展し、相手の不幸を願う、ということもあります。

 このように軽い嫉妬と激しい嫉妬の間には、なんの違いがあるのでしょうか?

 嫉妬というのは、自分がほしいと思うものを手に入れていないとき、他者が手に入れているのを知ったときにわきあがる感情です。そして、自分にはそれを手に入れることはできないだろうと信じていれば信じているほど、嫉妬は激しいものになります。

 最初にあげた1本50円の大根であれば、それは自分もどこかで1本50円ほどの大根を手に入れることは難しくないと思えるので、嫉妬は軽いものになります。しかし、若くして事業に成功し、高級マンションに暮らしている人、あるいは結婚して幸せな家庭生活を送っている友人にたいして激しい嫉妬を感じるのは、自分には同じようなものを手に入れることはできないだろう、と強く信じているからです。

 激しい嫉妬を感じるとき、同時に苦痛が生じるのは「手に入れられない」という自分にとっての真実を突きつけられるからです。もし上にあげたようなことで、自分にも同じものを手に入れることはさほど難しくないだろうと信じているなら、相手の不幸を願うほどの嫉妬にまで発展しないはずです。

 この嫉妬のメカニズムが頭に入っていれば、今後、ただ嫉妬という感情に翻弄されることはあまりなくなると思います。「自分はなにを手に入れられないと強く信じているのか?」というように、嫉妬を冷静に観察することができるようになるからです。闇のしくみを知れば、闇にただ翻弄されることなくそこに光を差すことができます。


 嫉妬という感情

 今回はあたらしく、嫉妬という感情をこのブログならではの角度で解説していきます。嫉妬についてはたくさんの本に「ひとりひとり個性が違うのだから比較をしてもしかたない」というようなことが書かれてあります。たくさんの本に書かれていることなので、このくだりはここまでにします。

 嫉妬というのは、地球上でたったひとり生き残りでもしないかぎりなくならない感情です。もしこの世にひとりで生活しているのなら、ブランドのバッグが欲しくなったり、高級外車に乗りたいという欲望もなくなると思います。100パーセント人の目を気にすることがなくなり、自分のことを見る人がひとりもいなくなれば、ほんとうに必要なものしか欲しくなくなるからです。

 つまり、嫉妬というのは怒りや寂しさと同じように自然な感情です。また、地球上で生きていることでしか経験することのできない、かけがえのない感情のひとつです。しかし、わたし達はよく嫉妬を感じること自体、悪いという判断をしてしまいがちです。そして嫉妬を感じてしまう自分を批難するか、ときには嫉妬を感じていないフリをすることもあります。

 自分は嫉妬なんて感じない、と言う場合、それは「自分は完璧な存在だ」と言っているのと同じことになります。この地球に存在するかぎり、完璧な人はひとりもいません。もし完璧であれば、地球を卒業して人間をサポートする側に回ることになります。

 他者を批難すると波長が下がるので、それに見合った人や出来事を引き寄せますが、嫉妬を感じる自分を批難しても同じぐらい波長を下げます。「人間だれでも生きていれば、うらやましくなることってあるよね」と共感し、嫉妬を感じる完璧ではない自分を受け入れてゆるす、無条件に愛す、それが一番大事です。

 ただ、嫉妬といっても「うらやましいなぁ」という軽いものから、恨みや憎しみにすり替わるほどの激しいものまで種類があると思います。激しいものになってくると、それはときにその人の人生を乗っ取ってしまうこともあります。嫉妬を成長のための糧にするか、あるいは嫉妬に人生を乗っ取られてしまうかは、嫉妬とどのように付き合うかで変わってきます。



 天使の翼に撫でられて



 もう何年も前の話ですが、あるバイトの面接に行こうと思いながらどうも行く気になれず、でもとりあえず頑張って行ったことがあります。面接が終わって家に帰ってきてほっとし、眠たくなったので布団のなかに潜りこみました。

 眠りの底に落ちるか落ちないかというとき、なにかに背中を撫でられる感覚がしました。たとえるとしたら、ふわふわとした大きな翼のようで、弾力があって力強い優しさのようなものを感じました。また撫でるときにハープのような音楽がポロロンと聞こえたような気もしました。あまりにもはっきりとした感覚だったので、今でもそのときのことを鮮明に思い出すことができます。

 よく頑張ったね。

 そう言ってもらえたように思いました。まったく驚くわけでもなく、そうされることがわかっていたみたいな感覚でした。なので起きあがることなくそのまま眠りました。

 天使というものはもともと好きでしたが、信じるとか信じないとかいうよりも、特別に意識をしたことがないころの出来事です。でもあのとき、なんとなく天使だなと思ったのです。

 ちなみに、バイトの面接は合格しました。8ヶ月だけの期間雇用で、直接的ではないけれど、それからの自分の人生を後押しするところがあったように思います。人生観をプラスの方向に変えていく、というような感じで、新しい人生が始まるきっかけになったと今振り返れば思います。
 神社に行く夢



 たまに神社にいる夢を見ます。とくに思春期のころ、行き場のない孤独な状況のなかで辿りついたのが神社だったということが数回あり、わたしにとって神社は神聖で静かな場所、精神的に疲れているときなんかに行く、無条件に受け入れてもらえ、癒される場所、見えない存在に優しく見守ってもらえる場所、スピリチュアルなエネルギーをチャージする場所というイメージがあります。

 なので夢のなかで神社が出てくると、「大丈夫、いつでも迎え入れてあげるよ。わたし達はいつもそばにいるからひとりじゃないよ」と自分を守っている見えない存在たちにそう言われているのだと思います。

 もし神社=困ったときの神頼みというイメージが強い人は、心配せずにわたし達(守護天使など)にまかせなさい、というメッセージになるのかもしれません。