怒りを感じるままにするワークの真実

 怒りを感じるままにする、というワークがあります。過去の出来事を思い出し、怒りが湧きあがってきたときにそれを否定したり消し去ろうとしたりするのではなく、とにかく怒りを感じるままにする、そうすれば浄化が起こるというものです。

 しかし、このようなワークをしても癒されたように感じられず、それどころか時間がたつとまた同じぐらいの激しい怒りが湧きあがってくるというのが現状だと思います。どうしてこのようなことが起きるのか?というと、そのときの苦痛を再現するだけで、ほんとうの癒しが起きていないからです。

 傷(感情)が癒されると相手をゆるすとかゆるさないとかいう概念自体がなくなります。それがほんとうのゆるしです。 なのである特定の出来事による怒りを感じるままにしても、時間がたって怒りがくり返しわき起こるなら、癒しが起きていない証拠です。癒しが起きれば、怒り自体わき起こりません。ちなみに、ゆるしというのは気づいたら起きているもので、起こすものではないのだとわたしは考えています。

 怒りを感じるままにすると苦痛を再現するだけなので、そんな苦痛をあたえる相手にたいしての怒りはますます募るばかりです。ほんとうに必要なのは、怒りの奥にある傷や恐れや寂しさまで辿りつき、それを癒すことです。またゆるせない出来事というのは、過去を振り返ってみれば同じような出来事を時や場所や人を変えて、くり返し経験しているはずです。それは幼少時代にまで遡り、同じような出来事をくり返し創造している根っこ(信念)にまで辿りついて解消する必要があります。(テーマ、感情を癒すツール、信念を手放すツールを参考にしてみてください。)
 
 褒めるというワークの落とし穴

 褒めることで自尊心や自信を高めて自分を愛す、というワークがあります。紙に自分の好きな部分や褒められる部分をリストのように書き出していき、毎日その紙を読みあげるというものです。たとえば、自分は笑顔が素敵だ、努力家だ、掃除を小まめにやる、感謝を怠らないというようにです。また、手の形がきれいだ、声がすてきだ、小さいけど魅力的な目だというように身体的に気にいっている部分もリストに含まれるかもしれません。
  
 しかし自分を褒めるというワークの効果が感じられず、自分をうまく愛せないときがあります。大体は物事がうまくいっていなくて落ちこみ、すっかり自信がなくなっているようなときです。そうなると心も体も疲れていて笑顔になれない、なにもやる気が起きず日課も投げ出してしまいたくなる、掃除も面倒になってしまう、そして感謝の大切さも忘れてしまう。そういうとき、自分を褒めるリストなど見たくもないかもしれません。リストを見れば自尊心や自信が高まるどころか、こうであれば好きになれる自分に反するものを突きつけられて逆に自己嫌悪に陥ってしまうからです。

 そのようなワークはときに、根本的な問題解決の道から逸れる原因になってしまうこともあります。仕事や人間関係でうまくいかずに落ちこんでいるとき、「自分はやっぱり何をやってもダメだ」と思うことがあるとします。それはたとえば、幼少時代に学校の成績や課外活動などでうまくいかなかったときに、親に「お前はダメなやつだ」と言われてきたために、大人になっても自分にそのような言葉をかけてしまうのです。

 そのようなときに自分は笑顔が素敵だ、手の形がきれいだと言っていれば、表面的なもので内側にある問題から目を逸らし現状を紛らわすことになってしまいます。幼少時代に培われた「自分はダメだ」という幻想の物語に終止符を打たないかぎり、これから先もダメな自分を演じ続けることになります。もちろん、ここでは問題から目を背ける行為を批難しているのではありません。

 自分を褒めることはとても大事です。しかし、ほんとうの自信や自尊心というのは、自分のなかにある闇(醜い部分)や恐れに正面から対峙して乗り越えたときにこそついてくるものです。 短所(好きになれない自分の部分)とうまく付き合えるようになることで自信や自尊心が育まれるともいえます。闇や恐れを完全になくすことは人間であるかぎり不可能ですが、うまく付き合えるようになることでそれらにコントロールされるのではなく、コントロールする側に回ることができます。そうなったとき、自信や自尊心は気づいたときにはついています。
 
 また、褒めることだけで自分を愛するのは、条件付きの愛です。 あなたがいい子にしているときだけ愛してあげる、ということになります。

 褒めるワークというのは、たとえば最初にあげたリストの例によれば、落ちこんでいて笑えないときに「今の自分は最悪な表情をしている」とか、また「うまくいかないのは感謝が足りないからだ」というように自己批難に繋がってしまうこともあります。褒めるリストが批難のリストにすり替わるのです。他者にたいする批難は波長を下げそれに見合った出来事や人を引き寄せますが、自分にたいする批難も同じぐらい波長を下げます。

 自分を褒めながらも、笑顔になれないときや感謝する気になれないときは、「今はそれだけ余裕がないのだ、しかたない。誰でもそういうときってあるよ」とうまくいってない自分を受けいれて愛すことが大事です。それが俗にいう、ほんとうの意味でありのままの自分を愛すということです。


 
 季節はずれのクリスマス

 たとえば、その季節ではないのに、クリスマスの夢を見ることがあるかもしれません。

 ひとりひとりのクリスマスに対するイメージによって、その夢のメッセージは異なってきます。たとえば、クリスマス=幸せな時間というイメージで、夢のなかのクリスマスもそのような雰囲気なら、「もうすぐ幸せな時間がやって来るよ」という意味になります。その場に知らない子供がいたら、もうすぐ新しい家族ができるよというメッセージかもしれません。この類の夢は、まるで現実の出来事のように鮮明であればあるほど予知夢である可能性が高いです。

 もし、クリスマス=いつもひとり、孤独で楽しい思い出がないというイメージで、夢のなかの雰囲気も寒々としているなら、今の自分の心境がそのまま夢に表れているのだと思います。現実の世界でまわりはクリスマスのように楽しそうなのに、自分はひとり孤独で寒々としているというように。


 ゾロ目がとつぜん始まる

 人間はだれでもスピリチュアルな存在なのですが、段階というものがあります。たとえばほかの人には見えない存在が見えるとか、声が聞こえるとか、未来を透視することができるとかいうようにです。

 そのなかでも、111、222、333のようなゾロ目をとつぜん頻繁に目にするようになる、ということがあります。デジタル時計や車のナンバー、ほかにも日常的に目にする数字です。それは少しずつ始まるというのではなく、ほんとうにとつぜん、一日に何度も連続して見るようになります。夜中に目が覚めて時計を見るとゾロ目、次に目が覚めたときもゾロ目というようにです。目に見えない存在を意識せざるを得なくなります。

 このようなことが起きたとしたら、あなたは最近スピリチュアリティの段階がひとつ上がったのかもしれません。これはある意味、合図といえます。これからどんどん経験したことのない現象を経験し、肉体的にも変化を感じ始めるかもしれません。。



 すべてやり直すかどうかは、自由意志

 前回に引き続き、恐れを利用して人々を戒め行動をコントロールしている、これからの新しい世界には必要のない古い概念について解説します。

 自殺をしたら、それまで経験した困難をすべてゼロからやり直すことになる、という話(宗教思想)を聞いたことがあるかもしれません。これは宗教によっても思想が違ってくるのですが、ある宗教によれば自殺をすると地獄に行き、永遠に火に焼かれることになるというような話もあります。

 しかし、「カルマの法則は幻想」のテーマでも書いたように、すべては自由意志の選択になります。宇宙の絶対的な法則のひとつ、自由意志の尊重があるからです。つまり自分が経験してきた困難をゼロからすべてやり直すかどうかは、個人の自由ということです。そして次に転生する場所も個人の自由意志によって選択できます。なにも地球でなければいけないというわけではなく、ほかの星や次元に転生することも可能です。また天国や地獄こそ、人々を戒め、恐れを掻きたて行動をコントロールしている人間ならではの概念から生まれた世界であり、実際そのような場所はありません。高次元のように周波数の高い次元、未浄化霊といった存在が集まりやすい低い周波数の次元というように、次元の違いがあるだけです。

 自殺をしたらそれまで経験してきた困難をゼロからすべてやり直さなければならない、と聞かされて嬉しくなる人はひとりもいないと思います。とくに虐待、暴力を経験してきているような人、また現在、自殺を考えてしまうほどのうつ状態で苦しんでいる人にとって、そのような概念は脅しです。脅しは愛にもとづいていません。愛にもとづいていないからこそ、人間が作り出した概念なのです。

 高次元の世界には善悪の判断が存在しないので、自殺は個人のひとつの選択ということになります。もし地球世界の概念によって、自殺が絶対悪であるとすれば、自殺を考えている人、自殺をした人は批難の対象となり裁かれてしまうことがあります。善悪の判断があると、そこに批難や裁きが生まれ、人々が対立します。「死のうとするなんてお前はバカだ!」と、自殺を思いとどまらせようとして言ったことが、返って崖から飛び降りようとしている人の背中を押してしまうことになります。

 わたしは自殺を推奨しているのではありません。自殺を思いとどまるのにほんとうに必要なのは脅しや批難ではなく、愛だということを話しています。また宗教も個人の自由意志によって尊重されるべきですが、宗教思想のなかには罪悪感を生じさせたり、脅しや恐れをベースとしているために、わたし達ひとりひとりが現実を創造するための力を奪っている思想があります。それらはこれからの新しい世界に進むために必要のないものであり、覆されるべきものです。これからも機会があれば、取り上げていきます。




 良いことがあれば、悪いことが起こる?

 前回に引き続き、恐れを利用して人々を戒め行動をコントロールし、個人の現実を創造するための力を奪ってしまっている概念について解説します。

 良いことがあれば、同じぐらいの大きさの悪いことが起こる。なにかを得たら、そのぶん失う。このような話を耳にしたことがあるかもしれません。もしこういったことを強く信じているなら、そうなります。宇宙の絶対的な法則のひとつ、信じているものによって現実が創造されるからです。

 たとえば、大金を手にしたあとに大病を患い、亡くなってしまった人がいるとします。その人はもしかすると大きなものを得たから、そのぶん失うという概念を強く信じていたためにそれに沿った現実を創造したといえます。あるいは、生前の契約に自分がこのタイミングで亡くなるということを記していたのかもしれません。

 少なくとも、宇宙(天、神)がこの人物はこれだけのものを得たのだから、じゃあこれだけのものを失わせることにしようと判断し、そのような現実を個人に与えることはありません。現実を創造するのは宇宙ではなく、わたし達ひとりひとりだからです。

 なにかを得たらそのぶん失うというのは、豊かさには限りがある、という人間世界ならではの思いこみが根づいているからこそ生まれる概念です。これは、足し引き算という人間が作り出した概念によって生まれます。そのような概念は地球にしか存在せず、高次元には足し引きも掛け算もありません。宇宙の豊かさは無限、それが真実です。限界を作るのは人間の信念形態から生まれる思考のみです。(このように高次元の視点で地球の世界を観察すると、現実を創造するための個人の力を取り戻すことに一役買います。)

 また、なにかを得ればなにかを失うという概念の根底には、脅しに似たものがあります。すべてを手に入れようとする欲は悪だ、というものです。脅しや善悪による裁きは愛にもとづいていません。だからこそ、人間が作り出した概念なのです。わたし達の世界は、恐れによって行動をコントロールするような概念にまみれています。人々はそれらのために、たくさんの可能性をブロックされています。恐れは恐れしか生み出しません。わたし達に必要なのは恐れではなく、愛です。

 

 
 宇宙はわたし達を試さない

 今回はこのようなたとえ話を取りあげます。たとえば、自分がやりたいことをやろうとすると反対にあう、それはほんとうにそれがやりたいことなのか試されている、という話です。

 しかし、宇宙がわたし達を試すことはありません。たんに「ほんとうにこの道に進んでいいのだろうか?」という自分の疑念や不安のエネルギーが外側の出来事や人に反映されているだけです。波長の法則です。宇宙がわたし達の意志を判断し、いろいろな出来事を起こすことはないのです。現実を創造しているのはわたし達だからです。

 具体的な例をあげます。たとえば大学を卒業してサラリーマンを10年続けた人がいるとします。彼はあるとき、会社を辞めて田舎で自分のパン工房を開きたいと思います。親や兄弟、交際中の恋人にそのことを相談すると、全員に猛反対にあいます。恋人はサラリーマンを辞めるなら別れるとまで言います。彼はそんななか、田舎の物件を探そうとするのですが、なかなかよい物件が見つからないし、予想していた以上に予算がかかる、といったことが起こります。

 猛反対にあうということは、彼のなかに自分が進みたいと思う道について不安や疑念があるからです。もしかしたら会社員生活から離れられるのであれば、別にパン工房じゃなくてもいい、という程度の決心なのかもしれません。そういった内側の状態が外側の人や出来事にすべて反映されます。とにかく、宇宙や守護霊といった存在が彼の気持ちを確かめるために、特定の状況を創造することがないのはたしかです。すべては個人の自由意志によって創造されるからです。その意志による行動を見えない存在がサポートします。

 もし彼が100パーセント腹に決め、自分の決断に自信を持っているのなら、他者に相談して決断を肯定してもらいたいという気持ち自体なくなるでしょう。するとしても「決めたから」という報告になると思います。物件探しに関しても、もともと手作りのパン屋だった場所が見つかったり、そこに必要な道具や機材なんかが一式丸々残っていて無料で使わせてもらえる、というようなことが起こります。

 またもうひとつ、自分がやりたいことをやろうとするときに近親者といった近い存在に猛反対にあったり、物事がどうもうまく進まない、というようなときがあるとしたら、それは人生の選択権を自分にゆるしていないということがあるかもしれません。

 たとえば、幼少時代からとても支配的な親に育てられたり、あるいは「やりたいこと」を話すたびに「お前なんかにできるわけがない」と否定されてきた子供は、大人になっても靴一足買うということがずいぶんと困難な作業になってしまいます。無意識的に、自分が決めることよりも、他者が決めることのほうが正しいという感覚が根づいているからです。もしこういったことに心当たりがある人は、まず靴下一足、アイスクリームのフレイバーひとつといったことから始めてみるといいかもしれません。そういったことを誰にも相談せずに自分で決める、ということです。1年後には、人生に失敗などなく、経験があるだけだと実感しているでしょう。
 石ころ、煉瓦ブロック、岩

 前回に引き続き、恐れを利用して人を戒め行動をコントロールしている、わたし達の世界に長く浸透してきたもはやこれからの新しい世界には必要のない古い概念について解説します。

 たとえばこのような話を聞いたことがあるかもしれません。ある女性が交差点で歩行者に気づかずにちょっとした接触事故を起こしてしまいます。彼女がそのような事故を引き寄せたのは、人間関係の不注意な言動に気をつけなさい、という天(宇宙)からのメッセージであるというものです。

 もうひとつの例をあげます。ある男性が大きな事故に遭い、手足が不自由になります。彼は日頃から感謝をする習慣がなく、奥さんが作ってくれた食事も当たり前だとして「いただきます」どころか、味つけに文句を言い、ときには「作り直せ」と暴言を吐くようなタイプでした。奥さんは家政婦どころか奴隷のように扱われながらも、彼が大きな事故に遭い手足が不自由になったとき、彼の手足になろうとするべく世話をします。彼はやっと奥さんに感謝の気持ちを告げます。つまり彼が大きな事故に遭ったのは、感謝の気持ちに気づかせるためだった、というものです。

 このふたつの例は、その人物がメッセージに気づかなければ、最初は石ころ、それに気づかなければ次は煉瓦ブロック、そして次は岩ほどの大きな出来事が起こるという約束によって展開されます。

 このような概念を強く信じていると、なにか悪いこと(病気や事故や人間関係のトラブル)が起きたときに、自分や日ごろの行いが悪いからだ、という自己批難や罪悪感に繋がりやすくなります。またこの概念のベースになっているのは、人は痛い目に遭わなければ学ばない、というものです。これは罰の概念に似るところがあり、人は恐れを抱きます。恐れを起こさせるような概念は高次元には存在しないし、宇宙がわたし達に罰をあたえることもありません。罰は愛に基づいていないからです。

 たとえば病気や事故に付随する出来事を通して、感謝を学ぶという結果になることはあります。しかし、宇宙が感謝を学ばせるために、わたし達に病気や事故に遭遇させることはありません。前回でも書きましたが、現実を創造しているのは宇宙でも天でもなく、わたし達ひとりひとりだからです。ただ、なにか辛いことや良くないことが起きたとき、「これはなにかのメッセージだ、それに気づかなければ次は煉瓦ブロックだ!」と信じている人にはそのようなことが起こります。信じていることが現実化するというのが、宇宙の絶対的な法則のひとつだからです。

 ちなみに最初にあげた例のふたつの出来事は、個人が引き寄せていることです。たとえば罪悪感を強く感じる傾向にある人は自分に罰をあたえるような出来事を引き寄せます。(どのような罰かというのは、その人の罰にたいするイメージで異なってきます。たとえば罰=心も体も痛い思いをする、罰=罰金というように異なります。) また、生前の契約によって特定の状況を創造する人もいます。


 天は見ているけど、判断はしない

「カルマの法則は幻想」というテーマでカルマの法則、因果応報というのは人間が作りだした概念(宗教思想)であって、高次元の世界には存在しないということを解説しました。今回のテーマはそれと同じく、恐れを利用して、人を戒め行動をコントロールしている概念をいくつか紹介していきたいと思います。

 このような話を聞いたことがあるかもしれません。たとえば、だれも見ていないところで徳を積めば、天はそれを見て「よしよし、よくやっている。だからお前にご褒美をやろう」という話です。逆に、だれも見ていないところで悪事を働いてもちゃんと天は見ていて「お前に罰をあたえるぞ」というような話もよく耳にすると思います。

 天というのは言い換えれば宇宙ですが、宇宙がわたし達の一挙一動を一瞬も見逃さずに見ていることは真実です。しかし、そこに判断はありません。宇宙はただ見ているだけです。そもそも、天とか神とかいう概念自体も人間が作りだしたものです。わたし達はエネルギーの存在であり、すべてが繋がっています。すべてはひとつです。

 現実を創造するのは宇宙ではなく、わたし達ひとりひとりです。
天がわたし達にいろいろな状況を経験させるのではなく、わたし達がひとつひとつの出来事を選択しています。それは生前の契約に記された出来事も含まれます。

 もし、上にあげたように「天は見ている」という概念が強く根づいていると、人はときに「これだけやっているのだから願いを叶えてよ」という意識に繋がることがあります。ほんとうの奉仕の精神ではなく、計算的にボランティア活動などに意識が集中してしまう場合もあると思います。こうなると自分の力を宇宙に放りなげてしまうことになります。

 あるいは逆に、「願いや望みが叶わないのは自分の日頃の行いが悪いからではないか?」という考えに陥ってしまうこともあります。それは自分が悪いという思考や自己批難に繋がるので、やがて罪悪感や義務感に結びついてしまいます。そのような感情を生じさせる概念というのは高次元の世界には存在せず、人間界ならではの概念です。批難や罪悪感や義務感というのは、愛にもとづいていないからです。高次元は愛という宇宙でもっとも高い周波数の世界です。

 宗教を否定するつもりはありません。それらはすべて個人の自由意志だからです。ただ宗教思想のなかには、わたし達の可能性をブロックし現実を創造するための力を奪うことに繋がるものがあります。そういった概念はこれからの新しい世界にはもう必要ありません。今回はそのようなテーマでいくつか例をあげていきます。



 トンネルを抜ける夢

 2ヶ月ぐらい前に見た印象的な夢です。だれかはわからないのですが、親しい友人のような人とふたりで暗くて大きな洞窟のなかを歩いていました。するとすこし先に長いトンネルのような石の階段が見えてきて、あれを上がっていけば入口かな?と話しながら階段に向かいました。

 一番上の段まで辿りつくかと思ったら、入口は塞がっていて、ふたりともがっかりしたときです。気づくと入口の向こうには青々とした空が広がっていて、出ていくとそこは観光地のように華やかな港でした。そばには宝石のように美しい青色の海に、停泊している白いヨットや出店、観光客の人たちが思い思いに楽しんでいるようすが見えました。わたしは友人とお店に売られている華やかな商品を写真に撮ったりしていました。

 わたしにとってトンネルや洞窟というのはとにかく暗くてなにがどうなっているのかわからない、いつどこに出口が現れるのかわからない、というイメージがあることから、とにかく進んでいれば先は開けてくるよ、というメッセージだと思いました。最初、どうして入口が塞がっていたのかというのは、たぶん自分の不安や疑いだったのだと思います。また親しい友人と一緒にいたのは、ひとりではないよ、他者が手を貸してくれるよという意味にとれます。