ご無沙汰しています🙇‍♀️


ツイッターやフェイスブックには投稿しておりましたが、ブログを書ける状態ではありませんでした。

けれどAmebaでしか繋がっていない友達のことを想いブログ更新することにしました。



長く寒い冬をようやく乗り越えたと思ったら、コロナウイルス感染拡大。

免疫抑制治療を受けている身とあっては気にせずにはいられません。

人が亡くなる感染症って何⁉️


見えない敵とは闘えませんから、毎日のように報道される番組を観ているうちに、コロナ鬱とも呼ばれているような症状になってしまったようです。

中国、そしてヨーロッパに広がり猛威を奮うコロナウイルス感染症に対する日本の政策が、お粗末すぎて日本はダメになってしまうんじゃないかという恐怖にすら怯えました。


自分の身はいくらでも守れる。

けれど心配なのは未だにアメリカから帰国できない長男のこと、そして2月から会えなくなってしまった障害者福祉施設にいる次男のこと。

感染防止のため、面会はできますが週末の帰省はずっとできていません。

会いにいくと連れて帰りたくなるのは間違いないですし、私たちに会うと次男は家に帰れると思ってしまう。

それが可哀想で会いにいくことができません。

担当の支援員さんや看護師さんとはLINEで連絡を取り合えますが、次男の写真や動画を見ると会いたい気持ちが募ります。

職員の方々は外からウイルスを持ち込まないように細心の注意を払ってくださっています。

感謝しかありません。


アメリカの長男とは時々ビデオ通話しています。

やはり顔を見て話ができると安心できます。

帰国は待機期間を考慮して2週間早まったとのことですが、それでも6月中旬。

それまでにアメリカも日本も少しは収束に向かってくれたらいいなと思っています。

帰国して東京で働くとなるとそれはそれで心配。

アパートを引き払って渡米したので住むところも探さなくてはなりません。


息子たちのことを想うと胸がギューっと痛くなり苦しくなります😰

よく眠れていません。


一日も早い収束を願うばかりです。


一歩も外に出ない私のために夫が鉢植えの花を買ってきてくれました。

ペラゴニウムという花だそうです。

夫の職場の近くの農業高校の生徒さんが育てた花です。

季節になると果物や野菜も売りに来るようで、時々夫が買ってきます。

今年はお花見もできませんでしたから、花を見ると春になったんだとホッとしますね🌸

出窓から庭を見ると、いつの間にか大手毬の花芽がたくさん出ていました。

私の一番好きな花です。

今年も綺麗な花を咲かせてくれるでしょう。


最低限の家事と身の回りのことで精一杯で、とても専業主婦とは言えない私ですが、何とか一日一日過ごしています。

コロナのことは気にしないようにしてるつもりでも、寝言で「コロナ」と言っていることが夫に指摘されました😵


長野県では、東京からの帰省者や首都圏への出張者、海外から帰国された方と、その方々のご家族の感染がほとんどです。

クラスターと呼ばれるものは発生していません。

けれど東京は新幹線で日帰りできますし、大学が休校になったせいで帰省する大学生が後を絶たない。

コロナ避難と呼ばれる東京からの流入者もたくさん。

知事は早くから警告していましたが、緊急事態宣言が全都道府県に広がり、県外からの流入者は減ることでしょう。


次男の施設が無事であることをひたすら祈りつつ、息子たちに会える日を夢見て頑張ります。

皆さんも手洗いうがいと三密回避して、お元気でお過ごしください。




一方、病院でのリハビリは運動面が中心でした。


脳障害による盲目を何とかしてあげたいと思った私は本を読み漁りました。


そこで出会ったのがドーマン法でした。


アメリカのグレン・ドーマン博士が考案した脳の発達段階に合った刺激を繰り返し与えることで次の段階へ進むことを促すという訓練法でした。


いくつかある関門をくぐりようやく診察を受けられたのは1歳10ヶ月のとき。


私は退職をしていました。


長男は実家に預けて、夫と次男と3人で渡米しました。



診察後、栄養面、運動面、知性面、多岐にわたる細かいプログラムをもらいました。


子供が起きている時間は全てプログラムに当てなさいと言われました。


プログラムの中には人手を要するものがありました。


ボランティアさんの手助けが必要でした。


地域のミニコミ誌や新聞社にお願いして募集記事を載せてもらいました。


若い子育て中のお母さんや介護施設の職員の方、近所の主婦の方、市内の短大の学生さんなどたくさんの方が助けてくれました。



食事に関しても細かく指示を受けました。


そして最大の問題は病院の薬を飲ませてはいけないということでした。



次男の主治医はとても理解がありました。


いざという時は処置をしてくれることを約束してくださいました。


次男は脳性まひからくるてんかんを患っていました。


生後9ヶ月から発症しました。


ドーマン法のプログラムを始めて半年ほどかけて薬を減量していきました。


そうすると脳がハッキリするのでしょう。


次男の反応は良くなり、笑ったり喃語を喋ったりするようになりました。


特に視覚刺激のプログラムは効果があり、ハッキリしなかった対光反射が正常に近づくと、暗い部屋で光を目で追うようになりました。


追視ができるようになったのです!


その時の嬉しさは言葉では言い表せません。


更にプログラムを進めると、今度は私の姿を目で追うようになりました。


そして、私の顔を見て笑顔を見せてくれるようになった時は、人生で一番嬉しい瞬間だったかもしれません。



目が見えるようになった次男は突然動き始めました。


寝たきりだったのが、ハイハイするようになりました。


プログラムは順調に進みましたが、4歳でついに歩き始めた時に問題が起こりました。


てんかん発作が再発したことです。


プログラムをしている3年間の間、薬無しでも発作は一度も起きませんでした。


しかし、歩き始める段階の脳は、働きがとても活発になります。


障害を受けた脳細胞も活発になってしまったのでしょう。


アメリカの研究所からは薬を禁止され、主治医からは薬を飲まないと命の保証は無いとまで言われました。


数回救急車で運びました。


病院で処置を受けるまで30分以上けいれん発作が続きました。


苦しむ姿は見ていられませんでした。


30分以上続く発作は重積発作と呼ばれ、後遺症の危険や命の危険もありました。


一番大切なのは次男の命です。


薬を飲むことで集中プログラムを受けることができなくなりました。



海外での治療で、もちろん健康保険は利きません。


年間200万くらいのお金がかかっていました。


経済的にも私の体力的にも限界が来ていました。



5歳の時に家を建てて引っ越しました。


長野県の南部から北部へ。


新しい土地には近くに医療福祉センターがありました。


障害のある子供たちの診察やリハビリをしてくれる施設でした。


次男のリハビリはプロの手に委ねることにしました。


そして養護学校へ入学しました。



それまで次男中心の生活で、長男には寂しい思いをさせてしまっていました。


長男のことも考えてあげなければいけないと思いました。



引っ越す前に通っていた保育園で、年少だった長男に先生が抱っこしてあげると言った時に、長男は断ったそうです。


「◯◯ちゃんがいるから、ボクはだめなの」と言って。


その話を聞いて号泣しました。


もっと抱っこしてあげれば良かったと後悔しました。


確かに長男が歩き始めてからは、長男は歩かせて次男を抱っこして移動することも多かったのです。


普通の兄弟なら当たり前でしょうが、彼らは双子だったことを忘れていました。





ドーマン法をやめてから、長男中心の生活にしようと思いました。



小学生の時は危険でない限り、どんなに服を着て汚して帰っても叱りませんでした。


高学年ではスポーツ少年団に入り野球をしました。


中学、高校ではハンドボールに明け暮れました。


大会であちこち連れていってくれました。


もちろん次男も連れて応援に行きました。



次男は養護学校の生活がとても楽しそうでした。


言葉も増えました。


集団の力はすごいと思いました。



発作の処置の必要があり4年生くらいまでは学校に待機していました。


保護者の控え室があり、待機しているお母さんが何人かいました。


昼間はそこが私の居場所でした。



10歳くらいにようやく発作が落ち着き、私は家に帰れるようになりました。



昼間は次男から解放されて体は楽になるはずなのに、どんどん辛くなりました。



ドクターショッピングを繰り返し、今の病気が見つかりました。


発症は20代前半と言われました。


育児に追われて病院に行く暇など無く、体の不調を抱えたまま、世界一過酷と言われるリハビリのドーマン法を続けてきました。


体が限界なのもうなずけました。



障害のある子供は、成長するに連れて次々と問題に突き当たります。


その度に嘆き悲しみ、事実を受け入れて折り合いをつけます。


そして我が家の場合、健常な子供と同時の育児でした。


自分で打開策を考えていくしかありませんでした。


何度も泣きました。


理不尽さに耐えかねて台所で食器を投げつけたこともありました。


でも、何とか耐えられたのは、夫と、リハビリに協力してくれたボランティアさん方のお陰でした。


いくら感謝してもしきれません。



養護学校へ入ってからは、同じ障害を持つお子さんお母さんに会えました。


養護学校へ入れて良かったと思っています。


親子共々楽しい、かけがえのない12年間でした。



多胎児の育児は想像を絶します。


苦しんでいるお母さんは一人で苦しまず、助けを求めて欲しいと思います。


多胎育児のニュースのお陰で自分の育児を振り返ることができました。



多胎児の育児で悩んでいるお母さんの励みになれば幸いです。

テレビで全国多胎家庭1,591世帯の実施アンケート調査報告 壮絶な多胎育児の実態が明らかに【認定NPO法人フローレンス】のニュースを見ました。

関連記事はこちら。


それを見てとても胸が痛みました。

私も多胎育児をがむしゃらに頑張ってきたからです。


#助けて多胎育児


私が双子を育てていた頃にSNSがあったなら、どんなに助けられたことだろうと思います。


見た目には可愛い双子。






双子用ベビーカーに乗せて移動していると、病院や公園では必ず声を掛けられました。

「双子ちゃん、かわいいね。女の子?男の子?」


けれど、双子の育児は壮絶でした。

体力的にも精神的にも限界に近い育児で、記憶さえ飛んでいる部分も多いです。

実際、2、3歳頃までの記憶があまりありません。


不妊治療を一年続け、やっと授かった子供。

双子を授かったと知った時は嬉しくて、妊娠中が一番幸せだったと思います。


出産はスピーディーで2人の生まれた時間差は5分でした。


第一子の長男は体重が1906gしかなかったため、近くの総合病院のNICUへ転院。


次男の方は2478gありました。

2500超えれば未熟児ではありませんから、主治医は2人とも手元を離れてしまうのはお母さんが可哀想だろうと次男は手元に残してくれたのです。


けれど悲劇が起こりました。

生後3日目から4日目にかけての深夜、次男は様子がおかしくなりました。

時々体をケイレンさせました。

夜勤の看護師さんに先生を呼んでくださいと訴えると、シャックリですよと言われました。

そのうちに白目をむいて泡を吹き全身をケイレンさせました。

とてもシャックリとは思えず、泣いて先生を起こしてくださいと訴えました。

ようやく先生が来た頃には産科医の手には負えない状態でした。

救急車で長男の病院へ運びましたが、救急車の中で心臓が止まりました。

思い出すと今でも涙が出る、恐ろしい夜でした。


長男の主治医は手を尽くしてくださいました。

次男は蘇生しましたが1週間が峠と言われました。

私は不幸のドン底へ落とされた気分でした。

泣いて神様に祈りました。


命だけは助けてください!

どんなことをしてもりっぱに育てます!


次男は頑張ってくれました。

出産から10日後、退院した私はようやく2人に会うことができました。

次男は長男と変わらないほど体重が落ちてしまっていました。


2人は丸一ヶ月入院しました。

入院中は毎日冷凍した母乳を持って通い、沐浴や授乳の練習をしました。


そして誕生日から一月後、2人揃って退院しました。

その時2人はちょうど普通の新生児の体重になりました。

退院した日が生まれた日だと思って育ててくださいと言われました。

双子の育児が始まりました。


夫も出来る限り協力はしてくれましたが、授乳だけは私一人でがやらなければなりません。

3時間おきに2人分、1日16回の授乳で寝不足が募っていきました。 

昼なのか夜なのか分からない日々が続きました。


長男は舌小帯短縮症で上手く母乳が飲めず、飲まれる私も乳首が切れて痛みました。

乳首があまりに痛い時は、次男に飲ませてから母乳を絞り長男に哺乳瓶で飲ませる、という方法を取るしかありませんでした。


職場の同僚から桶谷式母乳育児を出産前に教えてもらっていました。

桶谷式乳房管理法を受けて質の良い湧きたての美味しい母乳を飲ませるという育児法です。


隣の市に手技をしてくださる先生方いらして、双子がいる入院中に何度も通いました。


マッサージに通ったお陰で母乳は有り余るほど出ました。

先生には「質の良い母乳を3時間おきに飲ませることは、どんなリハビリにも勝る。脳に良い刺激を与えることができる」と言われました。

その言葉は障害が残るであろう次男を育てていく私をとても励ましてくれました。


長男の舌小帯短縮症は手術を決めました。

母乳が飲めないだけなら哺乳瓶があるけれど、将来発音がしにくい場合もあるとのことでした。

そして何より2人分の母乳が出るのに1人は哺乳瓶だなんて面倒なことはしたくありませんでした。


手術をするなら赤ちゃんの頃の方が記憶に残らなくていいと言われ、首が座るか座らないかの頃に手術したと思います。

手術は局部麻酔で5分ほどで済み、手術直後に母乳を飲みました。

上手に飲めるようになっていました!


一安心も束の間、その頃から次男の発達に問題が出てきました。


障害が残ることは覚悟していましたが、実際目にするとショックでした。


まず、目が見えていないようでした。

長男は私の姿を追うように見るのに、次男はどこを見ているのか分かりませんでした。


次男はとても綺麗な目をしていました。

こんなきれいな目が見えないはずがないと信じていました。


3ヶ月検診で次男には「脳性まひ疑い」の診断がくだりました。

それで県外にある障害児の専門病院へ行きました。


そこで次男は


中程度の脳性まひ


と、診断を受けました。

リハビリが開始されました。


次男のリハビリは生後3ヶ月から週3回のペースでした。


双子を連れての通院は大変で、家に帰り着くとクタクタに疲れていることは言うまでもありません。


双子というのは、2人とも一緒に眠ってくれる時間があまり多くありません。

当然私の睡眠も途切れ途切れでした。

眠れる時に眠る、食べられる時に食べるという生活でした。

2人分の母乳をあげているとやたらとお腹が空き、夜中の授乳の後にもパンを食べたりしていました。

それでも私の体重は落ちていきました。


双子が退院してからも桶谷式マッサージは受けていました。

市内で受けたいというお母さんが集まり公民館などを借りてマッサージを受ける場を先輩お母さん方が作ってくれていまた。

どんなにありがたかったことか!


産科の婦長の経験もある先生は、発達に見合った離乳食や体操などを教えてくださいました。

母親にも食事制限がありました。


一番大変だったのは離乳食でした。

進度が2人別々だったからです。

長男は順調に進みましたが、次男は離乳食を嫌がり食事のたびに泣き叫びました。

母乳は有り余るほど出ましたから、お腹を空かせることはありませんでしたが、離乳できなければ保育園に預けられないと思いました。

次男は哺乳瓶を嫌がったからです。


第二部へつづく