一方、病院でのリハビリは運動面が中心でした。
脳障害による盲目を何とかしてあげたいと思った私は本を読み漁りました。
そこで出会ったのがドーマン法でした。
アメリカのグレン・ドーマン博士が考案した脳の発達段階に合った刺激を繰り返し与えることで次の段階へ進むことを促すという訓練法でした。
いくつかある関門をくぐりようやく診察を受けられたのは1歳10ヶ月のとき。
私は退職をしていました。
長男は実家に預けて、夫と次男と3人で渡米しました。
診察後、栄養面、運動面、知性面、多岐にわたる細かいプログラムをもらいました。
子供が起きている時間は全てプログラムに当てなさいと言われました。
プログラムの中には人手を要するものがありました。
ボランティアさんの手助けが必要でした。
地域のミニコミ誌や新聞社にお願いして募集記事を載せてもらいました。
若い子育て中のお母さんや介護施設の職員の方、近所の主婦の方、市内の短大の学生さんなどたくさんの方が助けてくれました。
食事に関しても細かく指示を受けました。
そして最大の問題は病院の薬を飲ませてはいけないということでした。
次男の主治医はとても理解がありました。
いざという時は処置をしてくれることを約束してくださいました。
次男は脳性まひからくるてんかんを患っていました。
生後9ヶ月から発症しました。
ドーマン法のプログラムを始めて半年ほどかけて薬を減量していきました。
そうすると脳がハッキリするのでしょう。
次男の反応は良くなり、笑ったり喃語を喋ったりするようになりました。
特に視覚刺激のプログラムは効果があり、ハッキリしなかった対光反射が正常に近づくと、暗い部屋で光を目で追うようになりました。
追視ができるようになったのです!
その時の嬉しさは言葉では言い表せません。
更にプログラムを進めると、今度は私の姿を目で追うようになりました。
そして、私の顔を見て笑顔を見せてくれるようになった時は、人生で一番嬉しい瞬間だったかもしれません。
目が見えるようになった次男は突然動き始めました。
寝たきりだったのが、ハイハイするようになりました。
プログラムは順調に進みましたが、4歳でついに歩き始めた時に問題が起こりました。
てんかん発作が再発したことです。
プログラムをしている3年間の間、薬無しでも発作は一度も起きませんでした。
しかし、歩き始める段階の脳は、働きがとても活発になります。
障害を受けた脳細胞も活発になってしまったのでしょう。
アメリカの研究所からは薬を禁止され、主治医からは薬を飲まないと命の保証は無いとまで言われました。
数回救急車で運びました。
病院で処置を受けるまで30分以上けいれん発作が続きました。
苦しむ姿は見ていられませんでした。
30分以上続く発作は重積発作と呼ばれ、後遺症の危険や命の危険もありました。
一番大切なのは次男の命です。
薬を飲むことで集中プログラムを受けることができなくなりました。
海外での治療で、もちろん健康保険は利きません。
年間200万くらいのお金がかかっていました。
経済的にも私の体力的にも限界が来ていました。
5歳の時に家を建てて引っ越しました。
長野県の南部から北部へ。
新しい土地には近くに医療福祉センターがありました。
障害のある子供たちの診察やリハビリをしてくれる施設でした。
次男のリハビリはプロの手に委ねることにしました。
そして養護学校へ入学しました。
それまで次男中心の生活で、長男には寂しい思いをさせてしまっていました。
長男のことも考えてあげなければいけないと思いました。
引っ越す前に通っていた保育園で、年少だった長男に先生が抱っこしてあげると言った時に、長男は断ったそうです。
「◯◯ちゃんがいるから、ボクはだめなの」と言って。
その話を聞いて号泣しました。
もっと抱っこしてあげれば良かったと後悔しました。
確かに長男が歩き始めてからは、長男は歩かせて次男を抱っこして移動することも多かったのです。
普通の兄弟なら当たり前でしょうが、彼らは双子だったことを忘れていました。
ドーマン法をやめてから、長男中心の生活にしようと思いました。
小学生の時は危険でない限り、どんなに服を着て汚して帰っても叱りませんでした。
高学年ではスポーツ少年団に入り野球をしました。
中学、高校ではハンドボールに明け暮れました。
大会であちこち連れていってくれました。
もちろん次男も連れて応援に行きました。
次男は養護学校の生活がとても楽しそうでした。
言葉も増えました。
集団の力はすごいと思いました。
発作の処置の必要があり4年生くらいまでは学校に待機していました。
保護者の控え室があり、待機しているお母さんが何人かいました。
昼間はそこが私の居場所でした。
10歳くらいにようやく発作が落ち着き、私は家に帰れるようになりました。
昼間は次男から解放されて体は楽になるはずなのに、どんどん辛くなりました。
ドクターショッピングを繰り返し、今の病気が見つかりました。
発症は20代前半と言われました。
育児に追われて病院に行く暇など無く、体の不調を抱えたまま、世界一過酷と言われるリハビリのドーマン法を続けてきました。
体が限界なのもうなずけました。
障害のある子供は、成長するに連れて次々と問題に突き当たります。
その度に嘆き悲しみ、事実を受け入れて折り合いをつけます。
そして我が家の場合、健常な子供と同時の育児でした。
自分で打開策を考えていくしかありませんでした。
何度も泣きました。
理不尽さに耐えかねて台所で食器を投げつけたこともありました。
でも、何とか耐えられたのは、夫と、リハビリに協力してくれたボランティアさん方のお陰でした。
いくら感謝してもしきれません。
養護学校へ入ってからは、同じ障害を持つお子さんお母さんに会えました。
養護学校へ入れて良かったと思っています。
親子共々楽しい、かけがえのない12年間でした。
多胎児の育児は想像を絶します。
苦しんでいるお母さんは一人で苦しまず、助けを求めて欲しいと思います。
多胎育児のニュースのお陰で自分の育児を振り返ることができました。
多胎児の育児で悩んでいるお母さんの励みになれば幸いです。