桐朋の音楽教室はバッハの「イタリア協奏曲」で受験しました。
今でもあるのでしょうか、試験会場は333号室でした。
ここはドアを入ると並んで座っている教授連の横を通らないとピアノのある舞台に上がれません。
その舞台までの道がとても長く感じられ、5歳だった私は歯をくいしばって、
「これから私はプロとして頑張る」と固い決意をしたのを思い出します。
本当は幼児科での入学になる所でしたが特別に小学生以上のクラスに入りました。
この頃クラスわけは年齢ではなく小学生から中学生まで成績別でした。
私は音は取れるけれど書き方がわからないので最初は横に母がつきそっていました。
この時知り合った中学生のお姉さんのお宅とは後に受験でお世話になる事になります。
ボーッとしていたけれどピアノや聴音は出来るのでこの時からわりと有名な存在になりました。
いわゆる「神童」という感じですネ。
でも母は「上には上がある」と特別扱いは全くしませんでした。
ピアノもある教授が「私が見たい」と言ってとってくれたのですが、
この人との出会いによって後に私の音楽人生は長く暗いトンネルに入ってしまう事になるのでした。
この教授は自分が苦労してきたらしく非常に厳しい人でした。
厳しいのはいいのですがヒステリーな物の言い方はとても嫌でした。
まだこの幼かった時はあまり怒られた事はないし記憶もないのですが、
前の大きなお姉さん達にどなったりしている様に驚いたと母は言っていました。