それでは、展示室内部です。


佐世保浦頭港への引揚の歴史を年表で説明してあります。


約140万人の引揚者のうち、一般邦人が約76万人、その多さに驚きます。


✥引揚船の写真

引揚者の多くは、栄養失調や下痢・皮膚病、さらに敗戦の失意と迫害による精神的疲労で、身も心もボロボロの状態だったそうです。
(さらに無言の帰国をされた方、船内で亡くなられた方もおられました)


しかし休む間もなく、浦頭検疫所
上陸と当時に消毒のため毒性の強いDDTを散布されたそうです。



検疫後は約7kmの山道を歩いて、佐世保引揚援護局(現在のハウステンボス地区)へ向かわされました。


そこで手続きを終えると衣類や日用品の支給を受け、2·3泊後、南風崎駅からそれぞれの故郷へと帰られたそうです。

ジオラマにて、位置関係を確認できます。

ようやく家に帰れると、どれほど嬉しかったことでしょう。でも、大切な人と無事に再会できなかった方もおられたのだと思うと・・・


浦頭への入港から南風崎駅で解散するまでの様子を写真で見ていると、胸に迫るものがありますね。


平和な時代の日本に生まれ、好きなことをして、お腹いっぱい食べて、家族とともに暮らせる幸せは、
この時代の人々の犠牲の上に成り立っているんだなぁと改めて感じます。


親戚に引揚者がいたという夫は、子供の頃悲惨な体験談を聞いていたそうで、興味深く資料を見ていました。


✥荷物札


✥戦時貯蓄債券など
終戦直後のインフレを防止するため、一定額以上の通貨や証券を、引揚げ者は上陸地で国に預けなければいけませんでした。(GHQが実施)
そのような通貨等の多くは、現在でも各税関に保管されているとのことですが、約6割が、引き取り手がないままなんだそうです。


落ちていたお守り入れ、
なんだか切ないです。

受入側であった浦頭引揚援護局は
『引き揚げる人の身になれ、この援護』を合言葉に、最盛期には不眠不休で活動されたそうです。


腕章やベルト、ゲートル、お弁当箱など


降伏文書の写しが、まず目に入ります。


✥引揚者特別交付金国庫債券など
引揚者やその遺族に対し、給付金・弔慰金に代えて国が発行した国庫債券。
資料館の方によると、このような給付金に対して、やっかみの声もあったのだそうです。でも、その悲惨な体験はお金では解決出来ないものであり、当事者でなければ分からない苦しみがあったはずだと仰っていました。




終戦当初は、引揚の主体は軍人・軍属と考えられていたのですが、敗戦により海外邦人の安全が脅かされるようになり、内乱や政情不安の続く異郷の地からの帰国を余儀なくされました。


昭和25年、佐世保引揚援護局は大村に移転し閉局。昭和56年には検疫所の建物も解体されました。
その後、資料館を含む記念公園建設の計画が持ち上がり、全国に寄付を募りました。
寄付金約1億円に佐世保市が2億円を出資し、昭和61年に完成しました。

資料館は平成28年にリニューアルされています。

無料で観覧できますので、是非たくさんの方に足を運んで頂きたいですね。
小規模ですが、内容は分かりやすく、とても勉強になりました。

このあと「引揚第一歩の地」へ立ち寄ってから帰ろうと思います。