伊25潜と特殊潜航艇 | kometarou

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コメ太郎のブログ

 

 
           (伊25潜の同型艦)

伊25潜水艦・田上艦長とハワイ9軍神の稲垣清兵曹長

 

伊25潜水艦といえば・・知って居る方には有名な潜水艦です。

今更私が戦歴を述べるまでもありません・・が

要約すれば

 

●米国大陸を浮上砲撃した潜水艦。

●零式小型水貞(藤田信雄兵曹長・奥田省三兵曹)で爆撃を2回。

機長の藤田兵曹長・この方はその後『零水観』『二式水戦』『強風』

に乗って終戦を迎えています。

   藤田飛行兵曹長・終戦時少尉

●ソ連潜水艦L16≪ 米士官乗り組みで国際法違反 ≫を撃沈。

●輸送船も数隻撃沈・・浮上砲撃も含む。

●この殊勲の潜水艦の艦長が田上中佐です。終戦時は潜水艦隊司令・大佐。

ただ、伊25潜水艦は田上中佐から小比賀勝中佐に替わったが昭和18年9月に消息不明、全員10月24日戦死と認定された。

ここでは詳細は以上で終わります。

○戦後直ぐ当時の所属は不明ですが後に海上保安庁所属となった「宗谷」船長になり海上保安庁に引き渡されて居ます。

 「宗谷」記録では・田上明次 第二復員事務官/復員事務官:昭和21年61日~同年年15日の2カ月弱

伊25潜艦長時代の人物像は『つねにもっそりと呑気そうな艦長も、いざとなるとその命令処置の適切機敏なるはまことに驚嘆敬服のはかえあ無かった』

と槇幸兵曹長の (伊25出撃す) で書かれて居る。

その中で、今ならUFOと騒がれそうな記述がある

( 17年1月6日、・・どこまで深い限りもない蒼空に白く月のようなものの浮いて居るのを発見した、はじめはパラシュートと思って見て居たがいつになっても降りてこない、望遠鏡で良く探ると瀬戸物か水晶の欠片のように見え、結局星であろう、と言うことになった。真珠湾に向かう真昼間の太平洋での出来事であった・・・) 

ちょうど78年前のこの日、当時は未確認飛行物体はこの程度の認識しか無かったようです。

 

本題は・この田上明次中佐が

三重県一志郡河合村(現・津市一志町)の出身ということです。

 津中学から海軍兵学校に入ったのですが・・

この方の出身地、一志郡河合村という集落はごく小さな村で今も戸数は変わらないと思います。

 

この小さな村から10歳位下の稲垣清と言う人が(昭和9年呉海兵団)居ました。

有名な特殊潜航艇の『ハワイ九軍神』の一人、稲垣清兵曹長として有名になりました。

潜航艇艇長・酒巻 和男大尉は真珠湾内で「特潜」の鹵獲を防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣ともはぐれ(稲垣はその後行方不明)、自身酸欠による失神状態で海岸に漂着していた所を、日系アメリカ人の陸軍兵士のデビッド・アクイに発見され、大東亜戦争での最初の日本人捕虜となる。

捕虜になった直後の写真の酒巻。

両頬にはアメリカ軍兵士により煙草の火を押し付けられて拷問された痕が見られる・・日本兵捕虜虐待の一号でもあった。

日本には捕虜虐待で戦犯にした米国人は日本人には拷問虐待しても罪の意識皆無で、証拠の写真まで残して居ます。

アングロサクソンという人種の本性です。

 

驚くのは、

当時僅か30戸もない小さな村から<日本屈指の潜水艦乗り>

が二人もみえたのです。

 

終戦後、歴戦の武勲の田上明次と言う方は『敗軍の将兵を語らず』と昭和55年10月に亡くなられるまで黙していました。

神奈川県逗子市で亡くなられた、御葬儀には同じ伊25潜の砲術長をしていた海兵10年後輩の方が

『戦後30年、お宅に毎日お伺いして昔話をするのが楽しみでした・・』

と涙を流されたそうです。

 

私は子供のころから、端から端まで歩いて数分の小さな河合村の稲垣兵曹のお墓に何度もお参りしました、が・・・

 あの小さな村から田上明次艦長も出て居ながら・・

軍神とならずに終戦を迎えたことで今は全く河合村の人達に忘れ去られて居ます。

出来れば、もう一度振り返って“我が村の偉人”をしのんで欲しいものです。

  参考文献 田上艦長の9歳下の弟さん/奥井祐三さんの

       自家本『伊25潜の生涯』