2016.01.09 天翔る日本武尊 神渡 良平著 致知出版 平成19年7月12日発行
上270頁 下285頁 上下刊とも1600円 12.5mmx18.4mm
評価 90点
神渡良平氏の日本武尊は、多くの参考文献と現場調査の下に書かれているが
津田左右吉氏や安本美典氏らの日本古代史とかなり違う立場で書かれている。
日本書紀や古事記ではなく、ホツマというさらに古い言語で書かれていた歴史書を
もとに書かれている。
私は、安本美典氏の歴史観に賛同するものであるが、神渡氏の天照大神が男性であるとか、
神武の東征も邇芸速日が不正を行っていたのを正すために五瀬が依頼し神武天皇が大和
を目指したというのも考えられなくはないし、興味深く読めた。
日本武尊というタイトルではあるが、日本の古代史を神渡氏なりに、解説している。
上巻
1.日代宮
日本武尊の誕生と幼少期の話である。
2.大君の憂い
景行天皇(日本武尊の父)が天照大神の御霊につかえる斎王の倭姫(伊勢神宮)
に、やんちゃな日本武尊の扱いを聞きに行く。
この章で、同床共殿のことに触れている、これは崇神天皇の頃、国が乱れた原因について。
瑞垣宮に天照大神と倭大国魂命の二つの神を祀って天皇とともにいることに問題がある。
と占いの結果が出た。天皇は天照大神を豊鍬入姫に、倭大国魂命は淳名城入姫に
託して鎮座するにふさわしい場所を探させた。倭大国魂命は大和神社に鎮座が決まったが、
天照大神はなかなか適当な場所が見つからず、
元伊勢と言われている天橋立のそばの籠神社にしばらくおられた後に先に地元の豊受大神が
外宮に鎮座された後、内宮に鎮座された。
3.熊襲征伐
日本武尊の熊襲征伐の様子
4.神武の東征
神武天皇の父である鵜葺草葺不合は近江の多賀宮で政を行っていた、その後、位を五瀬に譲り
日向に帰り、余生を送っていたが、病に倒れ床についてしまった。
その知らせを受けた磐余彦(神武天皇)は天種彦を供にして、日向に向かった。
天種子は預かっていた「世継文」を三笠山の蔵に納めて旅立った、。
そのすきに、飛鳥宮の邇芸速日が進化の長髄彦とともに、横暴を働き、食料の横取りや
理不尽な振る舞いを始める。
日向にいた磐余彦は父の埋葬をすませると、大和に向けて軍を整えて邇芸速日と長髄彦
を撃ちに大和へ向かった。と言うのが、神武の東征のおおまかな説明である。
このあたりは、通説や定説と随分違う内容ではある。邪馬台国が九州にあったのか、
畿内にあったのかの論争とともに、結論の出ていないところでもある。
5.弟橘姫の愛
帰化した新羅の皇子天日槍の四世の孫の田道間守の娘の 弟橘姫と日本武尊の出会い
に関する記述である。
弟橘姫の父 田道間守は、自分を日高見に派遣した景行天皇の跡を追って殉死する。
その後、万葉集で大伴家持があの有名な歌をうたう。
「海ゆかば、水く屍、山ゆかば苔むす屍、大君の辺にこそ死なめかえり見はせじ」
これ以降、皇居では主君に忠誠の証として、紫宸殿右に右近の橘、 左に左近の桜
が植えられるようになった。
6.倭の諭し
日本武尊が東征の際、伊勢神宮の倭姫を訪ねて、「天叢雲剣」と「火打ち石」を
授かる。
下巻
7.野火の難
富士山の麓で、廬原夏花の火攻めにあったとき、火打ち石の力で助かる。
8.天照と素戔嗚の葛藤
乱暴狼藉の限りを尽くした素戔嗚もハタレの乱を鎮める功績で、天照大神から罪が許され
出雲の国を統治するようになった。
大国主は素戔嗚の子供である。
大物主というのは、官職の名前であることがわかった。
「八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣造るその八重垣を」
と言う歌が心に残った。
9.弟橘の身投げ
荒れた海を鎮めるために、弟橘姫が海に身投げをする有名な話。
君が死んだとしても私の心からは永久に去らないとう意味で「きみさらず」
が木更津の地名になった。とか姫の袖の衣が流れついた浜を袖ヶ浦と呼ぶようになった
と言う逸話が書かれている。
10.出雲の国譲りの真相
出雲の国譲りの話である。
私が知っているのは建御名方は、素直に国を譲ることにして、自ら美保関に
入水した。その地に美保神社が建っている。という話だが、
この本では違う。
大国主が国を譲る際、息子の建御名方は、あくまでも戦いつづけ、
諏訪まで追い詰められ降伏した。となっている。
建御名方は、諏訪を開拓し、諏訪神社に祀られたと書いてある。
11.日高見の攻防
東征を成し遂げる課程を描いている。
12.能褒野の落暉
第十代崇神天皇の子ではあるが、正后の子ではなかった、八坂入彦と、八坂入姫の
陰謀にかかり、神上がりする。
