「いまここが天国」というブログのラストにいつも入れてる言葉。これは佐藤初女(はつめ)さんという女性が著書で書いてあった言葉だ。

 初女さんは敬虔なクリスチャンで、旦那さんが他界したあと「森のイスキア」という生きるのが苦しい人がいつでも訪ねられる場所を作って長く活動したあと、数年前に亡くなった。

 初女さんのおにぎりは、食べると涙が出るといわれるほど癒しのパワーが入っているらしく、海苔で真っ黒に包んだおにぎりは実に美味しそうに写真のなかで輝いている。

 素敵な生き方だなぁと心から憧れた。でもなかなか実践することは難しい。でもまずは目の前に落ちたハンカチを拾うこと。小さなことを少しずつできる範囲ではじめてみた。

 我が子に作る料理にイライラを入れないとか、食器洗い中に皿を追加されても小言を言わないとか、そんな小さなことだけど、心は次第に穏やかになっていった。



 そして、2022年に出会った萩原慎一郎さんの歌集「滑走路」。心をそのまま歌った短歌は、短歌をよく知らなかった私にもダイレクトに響いた。

・まだ蒼い僕の言葉が完熟のトマトみたいになればいいのに/萩原慎一郎

 生きる勇気がどこからか湧き出してくる短歌。そんな短歌を作った歌人で萩原さん以上の人に、私はまだ出会えてない。完熟のトマトに会いたかった。

 過去や現在の自分のしんどい思いを吐きだして詩に昇華させて、自分自身と、それを読む誰かの心が楽になったら、どんなに幸せだろう。

 そう思って、短歌の世界にズブズブのめり込んでいった。まだまだ…たぶん一生修行は続くんだろうけど、このモチベーションが消えない限り私は貪欲にいろんな所に顔を出して(人混み苦手なくせに😢)自分の短歌の向上と、誰かに届けるベストな道筋を探し続けると思う。

 短歌に花束を持たせてあげるためにコンクールにも出すし、連作の賞も獲得できるとうれしい。なぜならそうすることで飛躍的に自分の短歌が人に見てもらえることになるし、私と同じ、しんどい境遇で育った人が少し元気になるかもしれない。

 DVで長年苦しんだある人が打ち明けてくれた。「ペンを持って詠おうとすると手が震えるんです」

 そりゃそうだろうと思う。10歳以降ほとんどの身体への暴力がなくなった私でも、過去のことを歌にすれば推敲の度に記憶に吹っ飛ばされて月の裏側に飛んでいく。でも私の場合、暴力が軽度だったから次第に戻ってくるし、今の周りの人たちが支えてくれるから生きている。

 でも、もっとずっと長い期間痛かった人たちが歌を読めば、きっとフラッシュバックでやられることは想像できる。だから私が詠う。下手でも詠う。自分のためにもちろん詠うし、彼らのためにも詠う。(楽しい短歌も忘れず詠う!)

 最近、ありがたいことに短歌で少しずつ花束をもらうことが増えて、短歌を読んでくれる人も増えてきたように思う。その一方で、やはり悲しい言葉を投げられることも増えて、へなへなと落ち込むことも実は増えてきた。

 そんな状態は予想はできていた。けれど、その度に私は「手が震える」と打ち明けてくれたその人を思い出すことにしている。私がそこで落ち込んだら、あかんやん?

 そんなこんなでまだまだ短歌と人生の修行の旅は続きますが、影からなるべく意地悪せずに見守ってくださるとうれしいです。

 私と同じ誕生日を持つ佐藤初女さんと萩原慎一郎さん、二人がきっと天国でお疲れさまを言ってくれると信じて、もう少しがんばるっちゃ。

・はにかんだへしゃげトマトの一生を守れる土に私はなりたい

じゃあまたね👋
今、ここが天国。