「たんぽぽの日々」という、俵万智さんの著書を読んでいる。子育て中の短歌とそれにまつわるエピソードがエッセイとして添えられていてとてもほっこりする。




 初めての育児のときを思いながら、パラパラと読み進めていてこんな短歌に出会った。


・親子という言葉見るとき子ではなく親の側なる自分に気づく /俵万智


 実はこれ読んで、なんだか頭の上から銀のたらいが落ちてきた気分だった。確かに赤ちゃんを育てていたとき私も頭にあったのは「自分=親」という公式ではあった。


 でもね、その育児の方法を支配していたのは案外自分自身がされてきた育児方法じゃなかったのか、って最近思う。つまり、「自分=子」であったときの体験が、自分が親になったときに影響してしまうんじゃないか、と。


 これはいわゆる「虐待の連鎖」とか「暴力の連鎖」とかって呼ばれるよね。報道で、とんでもないネグレクトで亡くなった幼い子供のシングルマザーの母親自身が、凄まじいネグレクトと虐待を受けていた、なんてこともあった。


 そこまで悲劇的な事件にならなくても、子育てがいきなりスタートしたとき大きく影響受けるのが、親自身の幼少期の体験なのは、私自身も体感としてすごく理解できる。


 子供が理由もなく泣いて大変なとき、閉じ込めたり、大声で叱ったり、無視したり、手を上げてしまったり。ましてや一人っきりで育児をしていて十分に眠れなくて、周りのサポートが得られないとき、そういった不適切な育児は、更に拍車がかかる。


 子供が小さいころ、泣いて泣いて止まらない子を私は部屋に閉じ込めたことがあった。まるで、私の母が幼い私をベランダに閉じ込めた時のように。


 我が子を部屋に閉じ込めて、襖の向こう側で子供が泣いているのに、つっかえ棒をして出られなくしているひどい母親。そんなことが何回かあった。手を上げてしまったこともある。


 閉じ込めながら、ああ、これは私の母が私にやったことだ、と思いつつもすぐに扉を開けてやることが出来ない。もう意識が制御できる状態ではなくなっている。これがいわゆる育児ストレスの状況だし、虐待の連鎖の始まりなんだと思う。


 やっぱり、育児は一人でやったらあかん。


 実際はワンオペの日々だとしても、どこかに助けがあるんだと安心して育児をするのと、助けはないんだと思いながら一人で育児をするのとでは意味が違うんだよ。心の余裕の部分が、満月一個分ぐらい違う。


 私は子供がいやいや期に入ったとき、このままじゃヤバい、と気づいてすぐに無認可保育園を探して、週に数回、たった4時間ほど子供を預けて、心に棲みついていた夜叉(妖怪)をどうにか追っ払うことが出来たけれど、もし育児してたのが大阪郊外じゃなくて、保育園が満員のエリアだったら…と想像すると、ゾッとする。


 今もなお同じように孤立無縁のワンオペの状況で育児している人がいるなら、多くの助けが差しのべられることを強く願う。


 そして、私のような幼少体験がある人たちにとって親になることって勇気がいるかもしれない。怖いかもしれない。


 だからこそ、心に棲む妖怪が悪さをしないように、パートナーだけでなく、困ったら(困る前に)、手伝ってくれそうな友人、ご近所さん、行政サービスを妊娠中の動けるうちに調べ上げて、ひとりぼっちにならないように、立派な要塞を築いてほしいと強く願います。私の短歌はそんなとき役立たずだ。


 ファミリーサポートセンターとか行政のベビーシッタークーポンとか、いろいろあるから。


・親子という言葉見るとき今もなお子であり続く自分に気づく /坊 真由美


 暴力の連鎖を少しでも軽減できますように。


じゃあまたね👋

今、ここが天国。