空が高くなったねー。実際空には限界なんかなくて、どこまでも空なんだけど、秋の空は果てしなく突き抜ける透明感があって、頭の先からねじってソフトクリームみたいな形になって吸われてしまいそう。


 夏の空は逆にオラオラ~と言いながら、雲と一緒に上から押し付けてくるほどの威圧感で迫ってくる感じだった。だから日傘でブロックしないといけない。


 秋の空をぼーっと見ていると、泣きそうになる。とてもきれいなんだけど、なんとなく永遠に希望がなくて、かといって一瞬で私を消してくれる訳じゃなくて、何もできない私を地上に放置している感じ。


 魂はもう半分出かかってて、すぐにでも自由になって空の一部に吸い込まれたいのに、それを許してくれない身体が地上に残って私を引き留める。


 今は布団の中でこれを書いているけど、秋の果てしない空を想像して思い出すのは、空っぽな気持ちと、ずっと外に出ていたときに触れていた、冷えたコンクリートのツルッとした艶の部分。その表面の飛び出た箇所が皮膚に触れる痛さ。爪先に転がってた乾いた空き缶の音。


 短歌は魔法だ。31の音とずっと向き合っていると、心の中の本当の気持ちから目がそらせなくなる。だから辛い時期を詠った短歌には、その時期の思いが全て入ってしまう。でも、もう大丈夫と自信があったから、昨日はその歌を歌会に出した。


 たくさんの歌評はそれぞれに的を得ていて、歌の真意が伝わった手応えはしっかりあったのだけど、やっぱり全く歌の現実感が伝わらなかった人の歌評は、聞いてて辛かった。たとえ誤読だと分かっていても。


 歌が思わぬ方向で評されることは覚悟しているから全く気にしないけど、これは短歌うんぬん以前の、私の心の治癒の問題だと思う。


 もっと身近に暴力や虐待はあって、それを知ってもらおうと歌を作っても、少数、やはりどこまでも嘘ととらえる人もいるのが現実なんだよね。


 それを正面から突きつけられて、自分がどれだけ動揺するか、昨日は自分の精神力の限界をチラリと覗いてしまった感じ。頭で理解することと、心の動きのギャップは決して意志だけで埋めることができない。


 それぐらい、虐待や暴力の短歌を世間にさらして、評価を得ることの反作用の部分は大きい。人に見せなければ否定もされない。批判もされない。でも…


 でも、さらさないと変わらない世界があるんだよ。


 痛い人が痛いって言わなかったら、痛くない人がどうやって他人の痛さを理解できる?


 もっと強くならねば。東寺の心柱のように。大地震が来れば揺れのまま揺れて、そして本体を壊さないように痛みを空に吸わせる柱。秋空はこんなに優しいのに、私の心柱は、まだ細すぎる。


 フウタが心配そうに私を見上げている。布団から移動して、いま、ここ、実はトイレやねん。


(まま、なくほど、おしり、いたいの?)



 せっかくトイレまでスマホ持ってきたから、虐待短歌を緩和するために、昨日歌会で提出したフウタとママの愛の一首をここに置いていくね。楽しく作った、るんるんるん。


・6時ぺろん足裏舐めるん6時半髪引っぱるん時計よめるん?


じゃあまたね👋

今、ここが天国。