久々の家族のお出かけだったよ。


 子供が大きくなると、なかなか休みだからといって全員が同じ日程で旅行に行くのって難しい。うちは最後の全員集合が7年ぐらい前だったかなぁ。今回は翌朝に最後のひとりが合流してどうにか総揃い…もどきな旅行。


(いい子たち↓)



 子供が巣立っていくと最後にのこされるのは、夫婦二人になる。当たり前のことだ。この夫婦の最終的な距離感は、20年30年という長い歴史を経て形成されていく。分かりやすく言えば、夫婦は大きな木のようなものだ。


 そのスタートはどこかにポツリと落ちたどんぐりひとつ。そのひとつのどんぐりにふたりがせっせと土をかぶせて、雨乞いをして時々襲い来る嵐に耐えながら木を少しずつ育てていく。最終的にどんな形の木になっても最初からやり直すのってきっと難しい。


 夫婦というのは戦士ではないかなと思うことがある。一緒に暮らすまでの期間は、見つめ合ったり抱き合ったりが一番大切かもしれないけれど、ひとつの家庭をなるべく円滑に進めるというのは、お互いのぶつかり合いと譲り合いと、思いやりがないとなかなか難しい。


 時々、相手に消えてしまえと思うほど嫌なこともあるけれど、だからといってほんとに消えてしまうとちょっと寂しい…それぐらいの距離感がちょうどいいんじゃないかなと最近は思う。


 いつもペタペタと抱き合っていないといけないなら、なかなかその間に赤ちゃんを挟んで日々戦うのって辛い。(抱き合いたい方々は抱き合い続けてもいいとは思うよ。暑いで。)


 ふたりで家庭を築いている間は、基本はお互いの顔をめったに見ることができない。日々家庭を円滑にまとめるための家庭内労働と、金銭を得るための労働で、ほとんどの夫婦は見つめ合う余裕はなく、ふたりで同じ方向を向いていく。


 ここが難しくてふたりで同じ方向を向いていると思い込んでいても、やっぱり違う人間だから、違うものを見ていることが多い。それを忘れないようにすることが、とても大切。


 自分の見ているものを相手も見ていると思うときに、そこに横着な気持ちが生まれるし、相手の見ているものを変だと主張し続けたときに傲慢さが生まれる。


 やっぱり何かのご縁があって、共に暮らして長い年月が経ったのなら、お互いに自分の足りない部分を相手に見つけたときには、素直に尊敬すべきだし、相手の足りない部分を見つければ、自分の余裕のある部分でいいから、相手を埋めてあげる。そして時々自分の目で見ている風景を言葉で伝えること。これも、とても大切。


 そういう意味では、夫婦というのは、お互いの状況に合わせてコロコロと色を変えるふたつのサイコロのような存在であるのがベストなのかもしれない。


 異性として好きかどうかよりも、最終的に一番大切なのは、人間愛かもしれない。性愛、友愛、情愛。この三つが夫婦の三大要素だとすれば、実は一番手に入れにくいものは最後の情愛なんじゃないかなと思う。


 こればっかりは、時間と汗と溢れんばかりの感情のぶつかり合いを乗り越えないと得られないものなのかもしれない。そういう意味では私は今も親友と呼べる人をパートナーとして選べて、結構ラッキーな方なんだと思う。


 短歌をするにあたって、あるときの、ある感情だけを切り取って歌にしていくことがあるけれど、それは例えて言うならば、6色のサイコロのある色の部分を歌っているわけであって、絶望の歌を歌ったからといって、その夫婦が常に絶望の状況に置かれているわけではない。


 だから文字に現れてきたいくつかの短歌だけを見て、それを作っている私の人生のすべてを読んだ人に理解してもらう事はおそらく不可能だと思う。


 そういう意味では、やはり短歌はどこまでいっても一行の詩だし、人生と言うのはその一行の詩だけでは、決して表現できないぐちゃぐちゃに絡み合ったカラフルな糸の束みたいなものなんじゃないかなと思う。


 暗い気持ちを歌ったり、悔しい気持ちを歌ったり、悲しい気持ちを今後もどんどん歌うんだとは思うけれど、それだけが私の全てだとどうか誤解しないで、数千本の糸のうちの一本を短歌にしているんだなという目線で見ていただけると、とてもうれしいです。


 私のためと思って色々家族にアドバイスくれた方々、今後はその言葉のなかの愛だけを、いただきます。モグモグ。





 しっかしまあ、今回の秘密の浜辺でいきなり現れた虹と、エンジェルラダー(天使のハシゴ)は本当に美しかった。大量の魚介類を食べたので、明日、魚になってしまうのが少し怖いけれども、まあ、そうなったら海にでも飛び込もうか。



(短歌の海がいいね)

・妻のため書店を駆けるわが夫よ永井陽子の繊細を持つ


ではまたね👋

今、ここが天国。