最近はずいぶん変わってきたようだけど、長いこと短歌は作者自身の心の内を歌にしたものが多かった。(私性、と呼ぶらしい。ふーん)近頃は私性が全く入っていない短歌も多いし、誰かに成り代わってドラマのようにして、歌を編んでいく人もいるし、誰かを励ますために私性を排除した歌を作っている人もいる。


 けれども、やはり短歌の中の「私」と言うのは、創作の中心になっていて、歌の中の「主体=作者」だよね、と思っている読者が多いよね。

 

 歌を作る人たちと話していて、よく盛り上がるのが相聞歌を家族に読ますかどうかと言うネタ。と言うのは、相聞歌は恋の歌だから、その内容によっては今のパートナーが読んだときに明らかに自分じゃないって思い込んでしまうからだ。(実際に、あ、これ○○ちゃんのことだよ、と言う人がいるわけないし…。)


 そこんとこ、歌詠みさんが一番難しいところで、時折、超やきもち焼きのパートナーさんは過去のことを歌ってもやきもちを焼くし、もちろん現在進行形を少し脚色をして作った歌なんか見たときには、きっとびっくりしてしまう。完全フィクション短歌なんかは疑われ始めたら生きていけない。


 ここが短歌と小説の一番の違いで小説の中では、小説の主人公がどんなに激しい恋愛をしていても、読者はその恋愛を作者自身がしているとは思わないのに(実際にしてても…)、短歌に関しては激しい恋愛を歌えばその作者がその激しい恋愛の当事者であると、ほとんどの人は思うんじゃないかな。


 だから悩んでいるのよね、今。だって私の夢は80代でも相聞歌を歌っていること。結婚していようがいるまいが、人として素敵だなと思う人はたくさんいるし、映画や小説の中でキュンキュンすることだってあるし、妄想壁はかれこれ40年以上のおつきあい。事実と映画のシーンとをまぜこぜにして歌を作ることだってある。



(・黒ブラに顔を埋めてまどろんだ君の毛深い背中の匂い)犬とはわからんじゃろ?


 例えば、実際に乾杯したのが日本酒でも、歌のなかでは音韻のためにシャンパンにしちゃうこともあるし、行った場所が近所の公園でも、歌の中では月夜の浜辺に変身することもある。三日月が半月になったりなんてしょっちゅう。


 まぁ、そんなこと気にしてたら短歌なんてやってらんないし、そもそもいちいち周りにどう思われているかなんて、考えてたら自由な創作なんてできないわな。


 短歌の内容を、具体例を交えて質問攻めにするなんて無粋なことをするなんて、芸術の世界じゃありえない…はず。それってまるでルノワールに絵の中の裸婦全員を口説いたんですかって聞く位、馬鹿げたことだ。なら、ミケランジェロはどうなるんだ?礼拝堂、えらいことやん。


 かといって、やっぱり今あるもろもろの濃いめの相聞歌は、もいちょっと地下倉庫で寝かせていましょうか…とぼんやり考えていたり、いなかったりする、はっきりしない曇天のような空色でございます。ちょっと見たい?(誰も、なーんにも言うてへんで、坊)ほな一首だけ置いていくわね。

ベッドあるある短歌やし。


・ちうちうとちちに吸いつくちうちうと吸われてちうちうひげがちくちく


ぎゃはは。


ではまたね👋

今、ここが天国。