少しだけ家庭内暴力に触れています⚠️

 そんな激しいことは書いてないよん。


 気がつくといつもお友達がいなかった。幼稚園のアルバムを見ると、車の形の遊具に私が乗っている写真があって、前列に私ひとりがポツンと座り、後ろの座席に仲の良さそうな女の子3人が笑っている。そういう日々だったのだと思う。


 やっぱり(奇人~のブログで書いたように)木の肌を触ってたり、空を見たり、水を触るのが好きだった子だから、変わってると思われてたんだろう。


 ただ、小学校の時にそのアルバムの写真を見て、胸がきゅっとした記憶があるので、たぶん、お友達ってどんなだろうと、思ったことあったのかな。まるで外国の生活を想像するかんじで。


 両親が水商売で、母は美しく着飾って夕方5時に家を出る。商店街の人がヒソヒソ噂してる道路をカツカツとヒール鳴らしてバス停へ向かう。タクシー代を出せない、安っぽいスナックの雇われホステス、夜の蝶だった美しいお母さん。


 母が商店街の店に買い物に行くときに、いくつかの店には必ず私だけをお使いにやらせていた気持ちが今は分かる。店員の好奇の視線が辛かったのだと思う。肉屋、八百屋、いろいろ行かされた。


 町内の児童会でのイベントに他の親が来てても母が来ることは絶対にない。それなのに、やたらにイベントの役割をてきぱき片付ける、学校でも成績がすこぶる良かった私と姉を見て、周りのおばさんたちは「あの母親はスパルタママだから」と、私たちにも聞こえるようにニタニタと噂していた。


 確かに小3ぐらいまではベランダに閉じ込められた記憶もあるけれど、その後は母に勉強しろなんて言われたことは一度もない。


 どちらかと言えば、「勉強なんかやめて24時間のレストランに行こうよー」とスナック帰りの深夜1時に(睡眠中たたき起こして)誘い出す少女のような人だ。娘らの成績の良さと器量だけを唯一の希望に、父の暴力に耐えていた人だ。


 祖父母はとても優しかった。ある日、母が殴られて目に痣を作った日、朝っぱらから私は祖父母宅へ逃げ込んだ。でも、祖母が泣きながら学校に欠席の電話する姿を見て、もう頼ってはダメだな、と思った。おばあちゃんが悲しむのは私も悲しかったから。


 中学になってクラスから無視が続いて学校に行かないことを選択するまでの一年以上、不定期で父の暴力が続く間、私を支えてくれた唯一の透明の糸は、たぶん神社だった。何度学校帰りに立ち寄って、鳥居に泣いて抱きついて帰ったか分からない。


 境内に一人でいて、ただ生きてていいんだ、と思えた場所。神社がなかったら、たぶんもう今はもう生きてなかったと思う。それぐらい、あの場所には感謝しかない。


 おかげさまで、アメリカで日本人マダムに総スカン食らっても、その後、保育士でおババらに毎日いびられても、あまり気にしないのは、そういう幼少からの「孤独の訓練」のお陰かな、と思う。人生に無駄なことは何一つないのよ!


・きずつけぬまろき心をもつために人は傷つき蹴られて転ぶ


 「孤独」も時の洗礼を浴びると「孤高」になれる。人間は見かけは同じ形をしているけど、魚なんじゃないかと最近思う。群れていないと死んじゃう魚、穴のなかに隠れる魚、誰かを食って生きる魚、群れることができない回遊魚。



(こういう写真に撮られる名誉な魚もいる。)


イワシ、ウツボ、チンアナゴ、マンタ、クジラ。


 そう思いだしたら、案外友達のいない自分も愛おしくなる。生きてさえいれば、お日様は誰にも等しく当たり、雨も等しく降る。みんな必ず一筋の愛を持って生まれる。みんなちがって、みんないい。


・友だちは今日もやっぱり見あたらず おはよう朝おはよう今日の空


・友だちは今日もやっぱり見つからず おやすみ夜おやすみ今日の星


ではまたね👋

今、ここが天国。