2026年は連作の評を頑張ってみようかと勝手に思っていまして、さっそく大好きな歌人さんの複数参加してあるネプリひととせをプリントし、感想をまとめてみました。といっても、まだまだ未熟な歌詠みの私の個人的主観がバリバリ入った感想なので、作者さんたちは怒らないで読んでいただけるとありがたいです。

 

ではスタート!(以下、敬称略です)

 

●眞琴こと 何回だってすれ違う僕等は

「憧れの先生」のから始まる連作で、ラストの結句に「はつ恋の人」とあるので、先生=はつ恋の人だろうと思って読みました。


かつて恋していた先生への伝えられなかった一言を胸に秘めたまま、換羽途中のペンギンの群れの一人として成長していった主体が、五首目にでてくる別の「あなた」と恋をしておだやかに関係性を育てていこうとしている過程を描く連作で、主体のセリフとしてできた一首

 

ちょっとだけ上がっていけばいいじゃないおせちもあるし私もいるし

 

ア行の繰り返しが全体にまろやかな二人の関係性をよく現わしていて、外は一月で寒いはずなのになんとなくほんわかとする歌です。下の句でおせちと私を同格に並べているように作られていますが、本心はおせちはどうでもいいからお正月の一日を私と過ごしてほしい、ちょっとだけではなくてずっと長い時間一緒にいたい、という愛おしい心がよく出ていて素敵な歌でした。

 

●花林なずな 晴

タイトルを一瞬見て、なんだろうと思いながら読み進めているとなんと子犬の名前ではないですか!これは犬好きの私のために作られた連作に違いない…と思いながら読み進めていきました。


まず第一首目で、まだ子犬と出会う前の飼い主以前である主体と、生まれたばかりでどこか別の場所で成長している子犬を詠っている視点に驚きました。


全体的に甘い愛の歌が並んでいて、あえて闇の心の部分を一首入れたらもっと連作全体の愛が引き立つかな、とは思いましたが、いやいや、いわゆる孫歌と違い、いずれお別れの来ることの分かっている犬のことは、どんなに甘く詠んでもいいのだと勝手に私も思っているので、どっぷり愛の世界に浸らせてもらいました。

 

ひまわりのような子犬が駆けていきわたしを母というものにする

 

よく歌会で「~という」は説明的だからめったに使うなと怖い先輩に言われたのですがこの「~という」はとてもいい使い方のほうで、「母というもの」という表現で主体が母になるとはどんな感じか分からないなりに、手探りの中で子犬を育て始めている感じがよく表現されています。


もしかしたら主体には「母」が初めての経験だったのでしょうか。6首目の素直な一首など、犬や猫を飼う人なら誰しも思うことで、それが変な修辞もなく詠われているので、余計にしっとりと心に響きます。

 

●深尾早央里 しづかな砦

一首目、自らの存在を消しつつ「23.5センチの足のサイズを持つ器としての身体」を生きている主体が、七首目のまだ言へないこと、としていくつかの過去の母に対する思いを完全に消し去ることができないままに本当の光を求めて生きている様子が詠われた連作だと思いました。


全体的に光の表現が象徴的で、それは時に甲虫の裏返しになった背中にあるいは映ったであろう窓辺の光や、明け方のぼんやりとした光の中で不気味に浮き立つ母の記憶の白、(これは存在が白いというよりも、化粧っ気のない青白い母の顔や、輪郭が光に閉ざされていてはっきりとしない存在としての白、を想像しました。) そして、夕暮れの中に希望として灯される薄いひかりとして、実にさまざまな光が主体の前に現れて来るのでしょう。

 

ちぎり絵のやうにつないだ思い出を真白くましろくクレヨンでぬる

 

自分自身でつなぎ合わせたはずの思い出を、自分自身の手で白く塗りつぶしています。その中に、思い出を肯定的にとらえられない作者の葛藤がにじんでいるようです。白いクレヨンというのが象徴的で、幼い子供の使う画材であるクレヨンを心の中に残った自らの幼児性に武器として持たせて、過去の良い思い出にすがろうとする現在の自分を白く消去する切ない様子が描かれています。


神様のような気分で歩いてはみるけれど、やはり求める光は塗りつぶした絵から生まれることはなかったのでしょう。だんだんと薄暗くなっていく夕闇の中で、自分の未来を照らす光を自分自身で足しながら、静かに今を内観している…そんな様子が表現された七首でした。

 

●蒼野佑季 コールドスリープ

過去形の数首からはじまる連作は、かつて音楽に没頭していてそしてそれをあきらめたであろう主体の、過去の自分への語り掛けのような形で話が進んでいきます。


人の目を見て話すのが好きだった過去の自分、それを無敵と言い放ち、なおかつそれは夢であったと一首目で語り、その当時に親しかったであろう誰かの「幸せに生きていくのができない」というセリフでその関係性が終わったことを示唆しています。音楽をあきらめた後は使わなくなった音域の歌声は出なくなり、目には見えない透明のサビとして、主体の心をずっと曇り空に放ったままなのでしょう。

 

新雪をゆっくり踏むと鳴き砂に似た音がした。どの星にいる?

 

鳴き砂に似た音は、作者の心の内の小さな泣き声でしょうか。二首前で出てきた裸足の海とちがい、今は冬、そして気が付けば目の前の新雪の踏み音が出るほど雪の溶けない極寒。そこで作者は自分自身(あるいはかつて親しくしていた誰かへ)どの星にいる?と語り掛けています。


自分自身が別の星にずっといたような、または親しくしていた誰かがもう地上から消えて、別の星へと行ってしまったのでしょうか、それははっきりわからないのだけれど、「。」でいったん雪の音を受け止めた後、我に返ったように「どの星にいる?」と答えのない質問をしているその主体の心がとても切なかったです。


けれども七首目で、長い休止期間も自らの意思で「解いた」と主体は言い、百年目の昭和(?)の続きを「生きるよ」と宣言していて、そこに救いがありました。

 

●toron* ひとめぐり

伯母の闘病を通して抗うことのできない時の流れと、その中で次々に過去へと押し流されている「今」をやわらかく冷静に受け止めている主体の日々を詠っている七首だと思いました。


使いかけの角餅が乾燥しないように分厚く巻かれたラップに、時の流れに逆らおうとする自我を見、春色に彩られるはずの寺の庭に建てられたプレハブのグレーに、誰かの未来の死を予見させるような薄墨の色を見つけ、それに慣れてしまう自分を穏やかに、冷静にとらえています。


点滴のポールの密集した林を今生の肉体の行きつく波止場として表現するなど、感情的でなく、あくまで静かな心がそこはあるようです。しかし、

 

うっとりとアンコールへと入りゆく水位の上がる伯母の身体は

 

本来なら自然にしぼんでいくはずの命が、点滴だけでアンコールの一曲のように生かされていく伯母。身体はおそらくむくみ、その様子を水位が上がる、と感情を一切書かずに表現することで、長い人生を辿って来た身体というよりも、物質として肉体が扱われていることへの悲しい心情が見え隠れしています。

 

線香は圧されるままに燃えてゆく誰にも研いでもらえないまま

 

もしかして別の物質として生まれたのなら線香も針金のように研いでもらえて、永遠の形をとどめたのでしょうか。時の流れと空気に圧されるままに燃えて灰になるしかない人間のはかなさをそっと線香にたくして詠われています。


しかしながら、来年また寒風を受けても元気に揺れるえのころぐさの歌を最後の一首として置いたことで魂の再生の可能性を静かに提示している。素敵な連作でした。

 

●森内詩紋 ふみを贈らば

今回の作品の中で一番ニヤニヤの顔で読んだ連作でした。誰もが学校で習ったであろう古文の有名なフレーズを引用しながら、それを軽快な相聞の一年に変えていく手法、圧巻でした。


「会いたさ」「誘うなら」「一緒にいたい」「足跡つけにいこう二人で」「きっと運命」「君とすごす」と、ここまでありふれた(すいません)恋愛表現を短歌に使いながらそれが凡庸に見えないのは、全体を流れる軽快なリズム感と、カタカナ・ひらがな・一字空けで風通しよく配置された文字列、そしてなんといっても50代のおばさんがうらやむほどのフレッシュなラブの感情があふれているからでしょう。

 

眠くても会いたさが勝ち目が覚める 恋をしている春はあけぼの

 

現在形で歌われている一首目ですが、これを現在形で一首目で置いたことでほぼ全体の流れを決定づけていて、おそらくその春はずっと続くだろうし、一字空けの後の体言止めがあまりに爽快で、もう後の歌は読まなくてもわかるんじゃないか、などと恋に飢えたおばさんは思ったのですが、二首目の五月雨に続く「!」の大胆さにさらにノックアウトされ、三首目の花火か蛍が「デフォ」だが…とデート先を迷う歌、そして

 

誰も居ぬ冬はつとめて新雪に足跡つけにいこう二人で

 

一晩を過ごした翌朝の新雪を一緒に踏みましょう、となんとも色っぽいお誘い。もしもわが娘が彼氏にこんな歌を贈ろうとしていると知ったならきっと結句の「二人で」の一部を修正液で消し、「一人で」に変えてやるでしょう。(そうするときっと受け取った彼氏はもっと燃えるでしょうが…)ともかく、最近は暗くてなんか死んじゃいそうな連作をたくさん読む機会が多かったので、そんななか、とても心晴れ晴れとした新年を飾ってくれる連作でした。森内さん、ありがとうございました。

 

●杜崎ひらく 年中無休

大好きな杜崎さんの作品。がっつり職業詠なんですが、なんでだろう、杜崎さんの詩心を通り抜けると職業詠の武骨さが取り払われてとてもきらきらした優しい連作になるのが不思議です。なんだか輪業用のレンチも音楽を奏でてしまうんです。空梅雨と残業、の取り合わせの一首目、二首目のスポーツドリンクに汗とグラウンドの砂がまみれた様子、ありありと場面が立ち上がる中に、いきなり

 

秋晴れの日にも両手はこの街の自転車のもの爪の中まで

 

と爪の中へ入り込んだ自転車のオイルの黒さに視点を持ってくるところに驚きました。これはノンフィクションでないと、なかなかできない場面展開だと思うので、やはり短歌はデッサンに始まりデッサンに終わる、それを体現する導入部分だと思います。そしてこの歌にはある意味、職業へ自分をささげている潔さと、職業に対する誇りのようなものがあふれていて、仕事を丁寧に(時にしんどさも飲み込みつつ)やっている様子が伝わってきました。

 

大晦日だからと仕事を適当にせずいつもより丁寧にお客様へおじぎをしているであろう五首目、町の子供たちを優しく見守る六首目は、職業と主体が完全に融合したひとつの存在として、ささやかに街に生きていることを静かに提示してくれます。


七首目で、「春に漕ぎ出す母親の人」は自分自身の投影かもしれません。「人」という表現で、これから保育園などの送り迎えに酷使されるであろう自転車に対する愛と、初めての自転車を使った育児をスタートさせる母親とを愛情深く見つめています。

 

タイトルに「年中無休」とつけられたことにも大いに納得できる、主体の生命感に満ち溢れた日々がとても心地よい作品でした。

 

●河原こいし PaleBlue

あとがきを読んでからから、作品中に出てくる「きみ」はもしかして「犬」じゃないかと思いつつ読み進めたのだけど、どうもそうではなくて、七首全体を通して「きみ」はやはりあとがきに出てくる「夫」なのではないかと気づき、もう一度読み直してみました。


なぜなら一首目の主体を起こしてくれるのは間違いなく人(のはず)だから、そんな夫に守られつつ傷のない腕を持ち続けることができる現在の自分がいて、七首目の湯たんぽは案外犬のようでありつつも、ともにいてくれる夫なのではないかと思いました。本来あとがきは読まずに短歌は読むものなので、やはり歌全体から浮かび上がるのは、共に暮らす相手へ向けての暖炉のぬくもりのような愛情でした。

 

花よりも豪奢に散ってあげましょうインナーカラーの彩度を上げる

 

上の句で「豪奢に散る」、と言い放ちつつも髪の毛の彩度を上げるのはあくまでも内側に見え隠れするインナーカラーの部分なのです。やや控えめに、けれどもある意味開き直った気持ちで、未来へ向かおうとしている主体の心が鮮やかに表現されています。花よりも、という表現でおそらく日常になにか辛いことがあったとしてもそれをだらだら愚痴ることなく、自らの心の彩度を上げることで乗り越えていこうとする主体の心が感じられて愛おしい。


けれども、四首目の雨粒のように、涙はいつしか海となり日記の中には口に出さない気持ちがあふれてしまう。タイトルのPaleBlueは、かつて実際に血の気の引いたときの顔色を指すのかもしれません。そんな中、自分を支えてくれる夫は、傷をつけ続けた腕を長袖で隠していた過去をもつ自分を、湯たんぽのように温めてくれていて、その存在はかけがえのないものなのでしょう。けれどもそれを「私が湯たんぽを必要としている」、のではなく、「きみが湯たんぽを必要としているのでしょ」、と詠うあたりがとてもキュートです。そんな素敵な相聞歌でした。



今回皆様の連作を読ませていただいて、一首の中にも、連作の中にも、呼吸のできる余白を残してくださっていることがこんなに読者の私へ心地よい読後感を残してくれるのだなぁとしみじみ感じました。


事前予告もなく、勝手につらつらと書いてみましたが、書きながらこちらもすごく勉強になり、とても有意義なお正月休みとなりました。この度はこのような素敵なネプリにご縁をもらい、誠にありがとうございました。

 

じゃあまたね👋

今、ここが天国。