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号 外! ![]()
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5月18日(日)の例会には阪口善雄前市長が見学に来られます。下記の例会案内の第一部での朗読工房所属の安見圭子さんと千原恵子さんの作品朗読だけでもいっぱい楽しんでいただけます。お気軽に聴きにお越しください。どなたでも何時からでも見学できます。
もちろん無料です。現在10名の方の見学が確定、15名以上の来場者があるものと予測しています。
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「吹田自分史の会」月例会![]()
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■日時 5月18日 10:00~12:00
■場所 千里ニュータウンプラザ 7階
(阪急北千里線 南千里駅改札を出て直の売店を左折すると目の前が入口)
*有料ですが駐車場もあります。
■内容 ●第1部 朗読発表
*****************〔作者と朗読者〕
**********① 作・梅田米大 朗読・安見圭子さん(朗読工房所属)
********************「小学生集団リンチ事件」
**********② 作・路名 想 朗読・千原恵子さん(朗読工房所属)
********************「人が貨物に命が敵潜水艦に握られていた」
*********●第2部 ワンポイント講座 講師 梅田米大
**************テーマ「『しろばんば』『藤沢周平半生の記』と自分史」
********************************
*******************************************
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米大お気に入り会員の作品紹介![]()
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お気に入り作品を全文そのまま紹介します。
小学生のころ ひろせ まさひと
私がかよった大分市金池国民学校は、明治二十年の創立、昭和十九年当
時すでに開校五十九年といえば県内でも歴史のある学校として有名であった。
そのころから大分市でも小規模な空襲や爆撃が始まり、生母の里大分県
大野郡千歳村へ父に手を引かれて集団でなく独り疎開した。
亡き母は十一人兄弟姉妹の十人目、大分市内に嫁いで二十歳そこらで初
産。私を産むと間もなく亡くなった。そのため千歳村の母の両親は愛娘が不憫
でならず遺体をそのまま引き取りたいと、十里の道のりをタクシーで連れ帰った
経緯を、私がかなり大きくなって聞いた。母は生まれ故郷に土葬され、一人だ
けの立派な墓を建ててもらっていた。草の繁った坂道を登ってその墓に参っ
た。そのときの墓所の丘から見た家並みが点在する村の風景をぼんやり記憶
している。
村里の中心を成す禅宗「新福寺」の寺守のように隣接して母の実家はあっ
た。百姓が主だったが、藁葺屋根の中二階で蚕を飼っていた典型的な兼業農
家であった。祖父母と母の兄の伯父夫婦にその子供六人、合わせて十人家
族。多いいようでも当時は普通であったのではないだろうか。
わが娘を若くして亡くした思い入れか、祖父母に乞われて物心ついたときか
ら時々遊びに行っていた。よほど娘の悼んでいたのか、私が訪ねていくたびに
祖父母は涙ぐんで「よう来た、よう来たのう……」と喜んでくれた。
なぜか不思議と母は早世したが、母方は親戚も含めて長寿の家系だったよ
うだ。この村では近隣近在で竣工なった橋の渡り初めに三代の夫婦がそろって
先頭を歩く習わしがあリ、母の実家の祖父母、息子夫婦、孫夫婦が渡り初めに
招かれたと聞いている。
祖父は実に寡黙な人で、一家が囲む大きな囲炉裏端の定位置にでんと座り、
冬は薪をくべて、ちろちろ燃える炎と煙にさして顔も動かさず、目をしばたたせ
ながら火箸を操るその胡坐をかいた膝に私が座ると、そっと皺だらけの大きな
掌を私の小さな太ももにおくのが、母を亡くした孫への最大の愛情表現であっ
たろうと今にして思う。その掌で鼻水をすすり上げていた姿が忘れられない。
この祖父が伝説のような人であった。屋根の茅葺職人の弟子を育て、飛騨白
川郷合掌造りの保存に一役買ったとか。また、大分名産であった竹かご造りの
達人であったらしく、多くの弟子を育てて朱文字入りの生前墓を弟子たちから
寄贈されたほどの人〝広瀬 泉〟が、私の爺様であったなど想像もつかない朴
訥な人柄を忘れられない。
お隣と云ってはなんだが「新福寺」の、近郷では名僧と言われた当代和尚の
嫡男が私の一年後輩で、今で言う集団登校で一里の道のりをお寺の息子さん
と近所の子らと国民学校へ通うことになった。学校の外観は、本家を訪ねるコ
ースだったので覚えているが、校内でのこと、勉強のこと、先生のこと、生徒仲
間のことは記憶にない。国民学校へ四キロの道のりは長いようでも、わいわい
がやがやの路草道中は楽しかった思い出のほうが多い。
そのうえ、母の一番上の姉、伯母の家が途中にあり、学校の往き復りに見
上げる高台にある家の石垣に、季節になると子供心にも見とれるほどに大ぶり
で見事なつつじが色鮮やかに咲誇っていた光景が夢のように今でも思い出される。
大分県大野郡千歳村(現・大野市千歳町)近くに豊後竹田市。滝廉太郎の旧
家もあり、「荒城の月」で知られる岡城址や司馬遼太郎『坂の上の雲』に登場す
る人物広瀬武夫が日露戦役で戦死、軍神として最初に祀られた広瀬神社もあ
る。その広瀬武夫中佐も「広瀬家」の眷属であると思われているらしい。ちなみ
に母生家の家紋が広瀬神社と同じ“並び鷹羽”である。
奇習といってよいのか、この村に広瀬を名のる家が数十軒あるが、そのうち
十七軒が、さらしの布袋に米一升を入れて新福寺に持寄り、読経のあと「系
図」の巻物を広げ、しばらくみんなで膳をかこみ世間話がつづいてた。
母の実家は寺の隣のせいか、伯母や従姉妹たちは接待で大忙しだった思い
出がある。はじめてこのしきたりの当日にめぐり合わせ、その昔、屯田兵として
広瀬家の一族がこの村に住みついたと、伯父に聞き、歴史好きであった私は、
わくわくした覚えがある。今思うと、当たり前であるが、“系図”を読みきれなか
ったのが残念である。
終戦前に、父につれられて疎開先の母の実家の村から中国に移り住んだ。
近年、妻と、大連、旅順港、そして二〇三高地などを巡ったが感慨深いものが
あった。
転載者 注1:広瀬武夫(1868-1905) 日露戦争で行方不明になった部下を救うために死んでいっ
た海軍中佐。中佐を讃える歌は尋常小学校の唱歌になりました。
〈轟く砲音飛び来る弾丸 荒波洗うデッキの上で「杉野はいずこ杉野は居ない」……〉
***********明治時代の出来事ながら、昭和12年生まれの僕たちもよく聞きよく歌い、
***********「杉野はいずこ杉野は居ない」は流行語になって敗戦前後の子供はみんな知って***********いた。*僕ら幼少時の国の英雄だった広瀬中佐がひろせさんの縁者とは驚きです。
******* 注2:横組みに漢数字は違和感がありますが、原文が縦書きで漢数字で書かれている
********** からです。
***********************************『わが人生の想い出』第二集より転載
転載者:梅田米大