第六章 その①
【要約】
量には、分離的なものと連続的なものがある。また相互に位置を持つ部分から構成されているものもあれば、位置を持たないものから構成されているものもある。
分離的かつ部分が位置を持たないものは、数、言葉。
分離的かつ部分が位置を持つものは、なし。
連続的かつ部分が位置を持たないものは、時間。
連続的かつ部分が位置を持つものは、線、面、物体(立体)、場所。
数、言葉の諸部分は、互いに接する共通の境界を持たない。そのため分離的なものに属する。ここで言う言葉とは、音声とともに成立する言葉のことであり、それらは長い音節や短い音節によって計られるから、量であることは明らかである。
線の諸部分は、互いに接する共通の境界である点を持つ。そのため連続的なものに属する。同様に面も共通の境界である線を、物体も共通の境界である線、面を持つ。今の時も過去の時、未来の時と接している。場所については、物体の諸部分は場所の諸部分を占めており、その物体の諸部分同士が共通の境界に接しているため、その物体の諸部分が占める場所の諸部分同士も同じ境界で接することとなる。そのためこれらも連続的なものに属する。
線の諸部分は相互に位置を持っている。何故ならそれらの部分のそれぞれはどこかに位置していて、それぞれの部分が面のうちで何処に位置しているか、またどのようなものに接しているかを区別して示すことが出来るから。面、物体、場所も同様である。
しかし数、時、言葉はそのような位置を持っていない。何故なら数の諸部分が相互に対してある位置を持っていたり、あるところに位置を占めていたり、どのようなものが相互に接しているか示したり、することができないから。また時の諸部分の何一つ後に残っておらず、後に残っていないものは、位置を持つことなどできないから。また言葉の諸部分も何一つ後に留まっておらず、後に留まっていないものは、位置を持つことなどできないから。
本来的な意味で量と言われるのは、以上のもののみで、その他のものは全て付帯的な意味でそう言われるものである。何故ならそれらのものに注目しながら、その他のものを「これこれだけのもの」と言うからである。
例)白いものが大きい→白いものの面が大きくある
行為が長い→行為の時が多くある
運動が多い→運動の時が多くある
【感想・考察】
重さ、濃度など計測可能なものは、例えば重さについては箱を計測器に乗せ、それにより計測されたメモリという線の長さから導かれるものであるように思う。また100mlの水を入れた箱と200mlの水を入れた箱は、それぞれ100g、200gだとして、水が多いとか少ないというのは、水の物体(立体)が多い、少ないであり、白いものが大きいとは、白いものの面が大きいということであり、白いものは付帯的な量で、面が本来的量であるように、水というものも付帯的な量であり、本来的量はこの場合物体(立体)となる。そのため箱の重さは線、面、物体(立体)、場所から考えることができるものだと思う。ただ重さは白や水と違って、長さや物体(立体)に対応しているものであり、付帯的量とは違うものであるように思う。そのため仮に二次的な量と呼ぶのが良いのではないかと思う。
面も物体も、線の長さと角度の組み合わせによって表せるように思う。角度が連続的に変化する面や物体であっても、その瞬間ごとの角度として捉えれば、結局は線の長さと角度で表せる。しかしアリストテレスは線と面と物体を量としているので、角度は量なのではなく、それらから導かれる二次的量なのだと思う。線の角度はその線の長さと射影した線の長さを計測する計測器から得られたメモリの長さから導くことができる。
実数とは、連続量である線を数を使った言葉で表したものであると思う。ある線の長さを「彼の身長と同じ長さ」と言葉で表したり、5mというのは「これを1mの長さって決めた長さの5倍の長さ」、2.2は「ある長さを1と決めたその2倍と3倍とされる長さを10分割したその2つ分進んだ長さ」、√2は「ある長さを1と決めたその1辺が長さの正方形の対角線の長さ」というように、人間は線を数を使った言葉で表すのだと思う。実数はそのように線の表し方であり、重さや角度のような二次的量とはまた別のものであると思う。
連続量である時間から、ある時点を起点として1秒後と2秒後という2つの時点を要素を抽出した場合、この2つには前後という関係がある。そこで1秒後、2秒後、2.5秒後、3.5秒後、5秒後の5つの要素を抽出してみる。この5要素を1つの集合として考える。それぞれには前後関係があるので、それぞれの前後関係を比べると、12345の順位を導くことが出来る。「①1秒後、②2秒後、③2.5秒後、④3.5秒後、⑤5秒後」となる。これらは連続量から抽出された分離的なものとなる。12345は分離量である数となる。ここで1秒後に「こ」、2秒後に「ん」、2.5秒後に「に」、3.5秒後に「ち」、5秒後に「は」という音を当ててみる。するとそれは「こんにちは」という言葉となる。「こ①1秒後、ん②2秒後、に③2.5秒後、ち④3.5秒後、は⑤5秒後」となる。あらゆる「こんにちは」には発せられた時点はある。しかし抽象的な「こんにちは」はもはや順位と音の組み合わせだけであり、時点はもう意識されていない。「こ①、ん②、に③、ち④、は⑤」となる。
文字による言葉の場合も同様に考えることが出来る。場所は時間と違って3次元であるので、まず1次元に合わせるために線で考える。また時間には前から後に続いていくという順序があるが、線にはそれがないので方向を付ける。方向を付けることで時間と同じような順序を持つことができる。同様に「①1cm、②2cm、③2.5cm、④3.5cm、⑤5cm」となり、「こ①1cm、ん②2cm、に③2.5cm、ち④3.5cm、は⑤5cm」となり、「こ①、ん②、に③、ち④、は⑤」となる。
ただ人間は、音声に頼らず文字を見たりイメージしたりするだけで、言葉として認識するのは「こんにちは」など5文字くらいが限界じゃないかという気がする。長文などは文字を見て順に音声として再生していっているように思う。
また「こ①、ん②、に③、ち④、は⑤」という言葉において、「に」が「ん」より後ということや、「は」より前ということは、相手によって変わるものであり関係である。ただし「に」の順位の③は、相手が「こ」であれ「ん」であれ「ち」であれ「は」であれ③であることに変わりはない。これは「こんにちは」全体に対する関係となる。もし「にんげん」という言葉だったら「に」の順位は①となり、この5要素のうちの1要素として抽出されたということに対する関係となると思う。
白いものが大きいとは、白いものの面が大きいのであり、白いものは面の付帯的な量となる。それと同じように「こんにちは」が5であるというのは、「こんにちは」の数が5なのであって、言葉は数の付帯的な量であるように俺は思う。
しかしアリストテレスは言葉を数と同じように本来的な量であると書いているように思う。「①1秒後、②2秒後、③2.5秒後、④3.5秒後、⑤5秒後」などの抽出された5要素があるということは5という数があるということであり、要素の抽出と数は同レベルのものなのかもしれない。その抽出された要素となる1秒後や2秒後という概念まで言葉に含めているのなら、言葉は数と同レベルの本来的な量扱いはできるのかもしれない。