7章 その③
【要約】
〔7〕関係的なものを知るならその関係相手も限定的に知る
以上のことから、もし人が関係的なもの(a)を何か一つ(A)限定的に知るなら、[その一つがそれとの関係において言われるところのかのそれ](bであるB、Bと限定されたb)も限定的に知ることは明らかである。
このことはそれ自身からでも明らかである。もし人が「何かこのもの」(aであるA、Aと限定されたa)が関係的なものであることを知っており、関係的なものの「であること」は「或るものとの関係においてこうこうである」と同じであるとすれば、「何かこのもの」(aであるA)が[それとの関係でこうであるところのかのそれ](bであるB)も知っている。
例)
「何かこのもの」(aであるA)が2倍である(a)ということを限定的に知っているならば、また2倍であるのは[何もの](bであるB)のかということを限定的に知っている。
「何かこのもの」がより美しいものであるということを知っているならば、より美しいものは[何もの]よりかということを限定的に知っている。
(しかし、より美しいものであると無限定的(何とも限定されてないb)に知ることはできない。というのは、そのようなことが起こるのは想像としてであって知識としてではないから。それは厳密には知っているとはならないから。何故なら想像ではより美しい(a)と思っていても、それより醜いもの(bであるB)が何もないという可能性もあるから。)
しかるに頭や手などの実体はそれ自らまさにあるところのものを限定的に知ることができるが、[それとの関係において言われているところのそれ]は必ずしも限定的に知ることはできない。何故ならその頭が誰のであるか、その手が誰のであるか、限定的に知ることができないから。従ってそれらは関係的なものに属することはないだろう。そしてそうであれば、いかなる実体も関係的なものに属しない。
しかしこのような問題については、幾度も考察してみた上でなければしっかりした意見を述べることは難しい。しかしそれらの個々の点にわたって問題を提起したことは無益ではない。
【感想・考察】
〔7〕関係的なものを知るならその関係相手も限定的に知る
a[A]b[B]において、人がもしAと限定されたaを知っているなら、そのabを満たす範囲で限定されたBがあることを知っている。
例)
多い[リンゴ10個]少ない[B]
リンゴ10個が多い少ないというabを満たしていると知っているのであれば、そのBは「1~9個の物のうちの何か」ということで限定されて知られている。最初の少し広い範囲の定義であれ、修正後の定義であれ、関係としているならそのBは限定的に知られている。
abが成立する範囲のBを該当するB、abが成立しない範囲のBを該当しないBとすると、もしBが1~9個の物のように該当するBであれば、abは成立する。もしBが10個以上や0個のように該当しないBであれば、abは成立しない。そのためabが成立しているということは、該当するBが存在し、そのBは該当するBであるということとなる。またabが成立していないということは、そのBは該当しないBであるということとなる。
知っているとは、事実となる知識対象を写し取った知識内容が知識対象に合致している状態である。知識内容と知識対象は関係であり、以下の形となる。
知識内容[Aさん]知識対象[事実]
知識内容[ある知識]知識対象[事実]
合致[知識内容]合致[知識対象]
写し取った[知識内容]写し取られた[知識対象]
など
知っているということは知識内容と事実となる知識対象が合致しているということなので、白いものがあるということを知っているということは、白いものがあるということとなる。
知識対象の写し取りとは、直接的な写し取りと間接的な写し取りがあり、直接的な写し取りとは事実となる対象を見た、聞いた、触ったなどの感覚により受動し、それを記憶に残すことで、間接的な写し取りとは、直接見たり聞いたり触ったりできないものについて、見たり聞いたり触ったことにより知っているものから、論理的必然的につながったものを必然的につながっているものであると把握していることとする。
箱の中に玉が3つあるとして、AさんとBさんがその中を見ていない状態で、Aさんが6つあると想像し、Bさんが3つあると想像したとき、Aさんは想像と事実が合致していないので知らないとなるが、Bさんも合致はしているが直接見たわけではなく何かから論理的に導いたわけではないので、まぐれで当たっているということとなり知っていないとなる。例えば玉が3つ入っている箱を叩いたらある音が出て、それが3つ以外の時と異なる音である音であるとするなら、それを叩きその音を聞くということは玉が3つ入っているということと必然的繋がりがあり、その必然的繋がりを知っておりその音を聞いたということであればそれは知っているとなる。
何かを知っていると主張する人が、なぜそう言えるのかその根拠を問われたときは、その合致と写し取りを示すということとなる。日本国憲法全文を知っていると主張する人は、その全文を暗唱しその合致を示せば、それ以上写し取りを示す必要はない。このような複雑な文章について合致しているということは、まぐれの可能性は非常に低く、確かに写し取りが行われたものだろうということとなるからである。一方玉が3つあるのような単純なものについては、まぐれの可能性もあるので写し取りが必要となり、直接的な写し取りであれば見たからなど、間接的な写し取りであれば論理的に導いたからなど根拠を示す必要がある。
もし該当するBが全くないのであれば、Bを該当する何かとしたとしても、そのようなabは成立することはできない。もしBが無限定、つまり該当するBがあるとないの両方の可能性があるのであれば、該当するBがある場合であれば、abは成立している。該当するBがない場合であれば、abは成立していない。abが成立することを知っていると主張する人が、またかつBを無限定的に知っている、つまり該当するBがあるのかないのか知らないとするなら、該当するBがあるとないの両方の可能性があるということとなり、該当するBがある場合であれば、abは成立しており矛盾しない。該当するBがない場合であれば、abは成立しておらず、abの成立を知ることができないので矛盾する。そのため確かにabが成立していると知っているとは言えない。
また更に何かを知っているということはその本質(そのものがそれがあるかどうかで他のものと区別されるもの)を知っている。例えば目の前にハサミがあるかどうかを知るためには、ハサミがどういうものか、その本質を知っている必要がある。ハサミの本質を、8/10しか知っていない人は、ハサミがあるかないか知っていないとなる。ただ現実には物の本質を10割知っていることなどほとんどないと思う。ハサミがあることを知っているとした人はその本当の本質の8/10だけとなるその人なりの本質を持ったその人となりのハサミというものがあることを知っていると言える。そしてそれで日常生活では通じるし困ることはないと思う。本当の10割のハサミからすればある程度知っているということになるのだと思う。
箱の中に玉が3つあるということを知るにも、玉とは何か、3つとは何か、その本質を知らないなら同様のこととなると思う。玉という言葉の意味を知らない外国人なら、箱の中にカードが3枚入っていてもその区別はつかないし、知っていないとなると思う。
また玉が3つ入っているときに叩いたら出る音というのが、実は10回のうち9回しか出ず、1回は別の音が出るのだがそれを知らない人は、その音を根拠に知っているとしているのならそれは根拠が不十分ということとなり、知っているとはならない。ただそれもある程度知っていると言ってよいのだと思う。
何かを知っているということは、その像を写し取っていることであり、それを複数回繰り返すことでそれらの共通となる像を抽象し、それを本質(10/10の本質であれ、8/10や3/10の本質であれ、その人がその時捉えた何かしらの本質)として写し取る。そしてその本質があるかどうかで、そのものであるかどうかを判別する。また複数の事実に共通する「箱の中に玉が3つある」などの命題についても、その命題の中の語の本質によりその命題の意味は決まり、その命題に該当するかどうかでその命題に該当する事実であるか判別される。ただし命題の中の語の本質、その語の意味を知らなくても、それにより命題の意味を知らない、またはある程度までしか知らないとしても、その命題が成立しているなら起こる何かが起こっているなどの必然的に繋がっている他のことからその成立を知ることはできる。ただ命題の意味を知っている場合は他の似たようなケースでもその命題が成立するか判別できるが、命題の意味を知っていない場合はその場だけで成立を知っているということとなる。
属性はその本質の中に実体に宿っているものというものがあり、ある属性があることを知っているなら必ず何かその属性が宿る実体があることも知っている。白があるなら必ず白いあるものがあり、白い「ないもの」という形や、白がそれ自身で存在するということはできない。属性として白があることを知っているなら白いあるものがあることも知っているということとなる。
ただ感覚としてただ白と感じただけなら、そのとき認識されているその人なりの白の本質は「白は何か実体に宿っている形としてある」という本質までは入っていないかもしれない。その場合は、白いあるものがあることまで知っているとは言えない。ただそれは白の感覚を知っているのであって、何かに宿る属性としての白を知っているとは言えない。
一方関係においては多い少ないという関係があるとして、まず二つのものがあることを認識し、それを比較する認識があり、その上で多いと認識されるものであり、単なる多い感というものもイメージしづらく、多いを知っているとする場合、許される最低ラインの本質においても、また10/10の厳密な本質においても本質に「少ないと対であること」が含まれているので、多いを知っているということは少ないを知っているということとなる。また、多い少ないが成立するためには、該当するBが存在することが必要であり、同様に多い少ないが成立していることを知っているということは、その成立の本質となる「その該当するBが存在し、そのBが該当するBであること」も知っている。そのためBが無限定、つまりあるのかないのか知っていないとするなら、それはabが成立していることを知っていないとなる。
美しい[A]醜い[無限定なB]というものは成立しない。そのためこれを知ることもできない。知識内容[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像]知識対象[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立していないという事実]は成立しない。成立していないので知識ではないが、ただ美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像は作ることができる。
Aさんが漫画の中の登場人物について知っているとするなら、知識内容[Aさん]知識対象[漫画の中の登場人物]となる。ただ漫画の中の登場人物は想像の中の人物であり現実に事実として存在しないので、この関係は成立していない。しかしその漫画は現実世界で発刊されており、その漫画の中にその登場人物がいることは現実の事実であるので、知識内容[Aさん]知識対象[現実に発刊されているその漫画の中にその登場人物がいるという事実]という関係は成立している。また知識内容[漫画の中の他の登場人物]知識対象[漫画の中の登場人物]のように想像の世界の中同士で知るということもできる。頭の中で考えた想像もそのように考えたということは現実の事実なので同様となる。
知識内容[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像]知識対象[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像]というものは知識対象が事実でないので成立していないが、知識内容[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像を先程したこと]知識対象[美しい[A]醜い[無限定なB]が成立しているという想像を先程したという事実]というものは事実に対する知識ということで成立している。
対象を見たり聞いたり触ったりして直接的に写し取ってから10秒ほどしか時間経過してないものは、その程度の時間経過では性質が変化しないだろうという想像であるため、厳密には知識と言えない。
また思い込みと想像の違いは現実と違っていると思っていないかいるかとなる。Aさんが箱の中に白いあるものがあると思い込んでいる場合、知識内容[Aさん]知識対象[箱の中に白いあるものがあるという事実]は成立しない。また知識内容[Aさん]知識対象[Aさんの思い込み世界の中に白いあるものがあるという事実]も成立しない。Aさんが思い込み世界を認識したらそれは思い込みでなくなってしまうためとなる。ただAさんを思い込み世界の住人だと解釈すれば、知識内容[思い込み世界の中のAさん]知識対象[Aさんの思い込み世界の中に白いあるものがあるという事実]は成立する。
多い[リンゴ10個]少ない[B]の場合は、Bは知識の場合と違って事実でないといけないということはないので、多い[リンゴ10個]少ない[想像の中のリンゴ2個]でも良い。ただし現実の関係としては成立しておらず、認識内における想像の相手
との関係ということになる。手(関係)[手(実体)手あるもの[接続先]の場合は、接続先は現実の接続先でないと関係は持てない。想像の相手とは関係を持てない。ただし同じ想像の世界のものとしては関係を持つことができる。
事実においては該当するBはあるかないかどちらかであり、あるとないの両方の可能性のある状態なんて存在しない。しかし論理においては、ただ「あるものがある」としたら、「白いあるものがある」と「白くないあるものがある」の両方の可能性が存在する。事実においては、あるものは白かったり、20cmだったり、柔らかかったり無数の属性があるが、そこから「あるものがある」とのみ切り取ったら無数の可能性が現れる。ただa[A]b[-]だけとして、Bに言及しなければBは無限定的になる。
それぞれの可能性の場合は可能性世界となるとする。可能性世界も想像の世界と同様に知識内容知識/対象関係は現実世界のものとの間に成立しないが、その可能性があるという事実は関係が成立し、また同じ可能性世界同士においても関係は成立する。
論理において「確か」なものは事実と繋がっており事実においても成立している。論理において「場合」なものは事実と繋がっておらず成立していない。「1~9個の物のうちのどれか」というものは現実にはなく論理にしかないが、確かに「1~9個の物のうちのどれか」であれば、現実の事実のうちのどれかと繋がっているとなる。ただそのうちの「3個の場合」というのは、確かではなく場合の一つであるので、現実の3個という事実とは繋がっていないとなる。
論理においてa[A]b[-]とした場合、[-]は無限定なものだから、abは[-]が該当するB[である場合を前提としているので、確かなものは-[A]-[-]のみとなる、ここから[あるものがある]と[あるものがない]の両方の可能性が存在し、また[あるものがある]においては[該当するBがある][該当しないBがある]の可能性が存在する。この[あるものがない]と[該当しないBがある]を[該当するBがない]とまとめて[該当するBがある]と[該当するBがない]とすると、これらは場合となり事実と繋がっていない。そのため[該当するBがある]から必然的に繋がっているabの成立も場合となり、事実と繋がっていない。 事実と繋がっているものを写し取れば知っているということになるが、事実と繋がっていないので、abの成立を知っているとはならない。ただし、abが成立している可能性はある。
また、あるAとBが存在している場合、それに該当する関係abも存在する。例えば、a[リンゴ10個]b[リンゴ2個]というどちらも関係でないAとBについて考えると、a/bは多い/少ない、5倍/1/5倍、リンゴ同士/リンゴ同士など、この基底ABを満たす様々な関係が存在する。もしAとBが存在していることを知っている場合、それらの関係を知ることができる。ただ知るとは認識によるものであり、事実が存在していたとしても、それを認識しなければ知ることはできない。ある定理があり論理的にその証明が必然的に導かれるとしても、その定理を知っているからといってその証明を知っているとはならない。また事実としてリンゴが皿の上にあるのか、箱の上にあるのかであるとしても、それを見に行かない限りそれを知ることはできない。リンゴ10個とリンゴ2個から論理的に多い少ないは導かれるが、それは認識する必要はないので知る必要はない。ただし知っているものの本質に含まれているものは必然的に知られている。AとBの本質にそれらの関係は何も含まれていないので、それらの関係は知っている必要はないとなる。 一方、abの成立を知っているということは、そのabの本質にその該当するBが存在することも含まれているため、そのことも知っている。
ただもし基底ABが関係であった場合、それらはその本質に他者との関係においてあるものを含んでおり、その本質に含まれる関係abが必然的に導かれる。例えば飼い猫Aはその本質に誰かに飼われているということが含まれているので、飼われている[飼い猫A]飼う[猫飼うものA]が必然的に導かれる。また、飼われている[飼い猫]飼う[猫飼うもの]、関係[飼われている]関係[飼う]ともなる。飼い猫Aは誰かに飼われている猫Aのことであり、飼い猫[猫A]猫飼うもの[Aさん]となる。飼い猫であることが成立するためには該当するBの存在が必要であり、飼い猫であることの成立を知っているなら該当するBが存在することも知っている。
また5倍[10]1/5倍[2]という関係においては、基底が10と2であれば、5倍/1/5倍というabは必然的に成立する。ただ10の本質の中に2の5倍であるということは含まれていないので、本質から必然的に導かれたというわけではない。飼い猫[猫A]猫飼うもの[Aさん]において、猫Aから飼い猫というものは導かれず、ただ事実からそうなっているというのと同様に、10はただ事実として2の5倍であるということとなる。ただ猫Aの場合は飼い猫にならないこともできるが、10は2の5倍にならないことはできず、必然的に事実として成立するものということになる。必然的な関係の成立には本質によるものと事実によるものがあるが、本質によるものは基底を知ることで知られているものとなるが、事実によるものは認識されること によって知られるものとなる。
それを知っていてそれが関係ならば、本質から該当するBも知っている。また本質から該当するBを知っていないのなら、その知っているものは関係ではないとなる。手(実体)の本質は「その形状をしており物を掴む機能があるもの」などであるが、手(実体)だけを見てその本質からそれが手(実体)だと分かる。手(関係)[手(実体)]手あるもの[接続先]として、手(実体)は事実の認識によってその接続先を知ることはできるが、本質からその接続先を知ることはできない。そのため手(実体)は関係でないとなる。そのため手(実体)は関係でないとなる。
また手(実体)は論理において必然的に事実として該当する接続先を可能性として持つか、また必然的に事実として想像上の該当する接続先が想像される可能性を持つか、について考えると、手だけの存在で半径10光年に何も物がなく認識者もいないような場所にあり、その手が発生してから消滅するまで10秒しかないような環境の場合、その手は何かに接続される可能性も、認識される可能性もない。また必然的に可能性が現れたとしても、それらの可能性と必然的な繋がりを持っているわけではない。またそもそも可能性と接続することはできないので関係を持つことはできない 可能性世界内同士、想像世界内同士で関係を持つことはできるが、それは現実の実体が関係を持っているわけではない。そのため可能性や想像の相手とは必然的に事実として関係を持つということはない。またもし仮に必然的事実として関係を持っていたとしても、それは本質による必然ではないの手(実体)は関係とはならない。
しかしこのように結論を出したが、アリストテレスは更に考察した上でなければ、しっかりした意見は述べられないとしている。これは必然的に成立する関係が、本質から導かれるものと必然的事実によるものがあり、その境目について更に考察が必要なのではないか、10では必然的に2の5倍という事実が、手(実体)ではほとんど誰か接続先が事実としてあることなど、また認識している本質についても本当に10/10分かっているのか、9.9/10しか分かっておらずその0.1に何か他のものとの関係が入っていることはないのか、また関係の定義について本当にそれでいいのか、ということについても考察が必要ということなのかもしれないと思った。
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