第六章 その②
【要約】
量は何も反対なものは持たない。
例えば2ペーキュス、3ペーキュス、面など。
ただし人が、「多い」が「少ない」に対し、「大きい」が「小さい」に対し反対であるというなら、それは別である。
しかし、これらのものは量ではなく関係に属する。
何故なら何ものもそれ自身だけで「大きい」とか「小さい」とか言われるのではなく、他のものに比較されることでそう言われるからである。
なお、人が大と小を量としようが関係としようが、それらは反対のものを何も持たない。
何故なら他のものと比較してそうであるものは、反対なものを持つことが出来ないから。
仮に大と小を反対なものであるとするなら、同じものがあるものに比べて小さく、他のものに比べて大きいということが起こるので、同じものが同時に大と小という反対なものを受け入れることとなってしまう。
しかし、何ものも同時に反対のものを受け入れることはできない。
実体は病気だったり健康であったり、白であったり黒であったり反対なものを受け入れることができるが、それは同時にではない。
また、自分自身が自分自身に反対なものであるということとなる。
よって、大と小は反対なものではない。
従って、例え人が大や小を量としたとしても、それらは反対なものを持たない、ということになる。
しかし量に反対性があるように思われるのは、特に場所に関してである。
何故なら人々は、上を下に対して反対なものとしているからである。
人々は宇宙の外側に対して中央が最も距離を持っているため、その辺りの領域を下と呼んでいる。
そしてその他の反対なものの定義もこれらから導き出したようである。
何故なら人々は同じ類の中にあるものどものうちで、相互に最も多く隔たっているものを、反対なものと定義しているからである。
量は「より多く」と「より少なく」を受け入れない。
ある2ペーキュスは他の2ペーキュスに比べて「より多く2ペーキュス」であると言われない。
3は5に比べて「より多く3」であると言われないし、3に比べて「より多く3」であるとも言われない。
ある時は別の時に比べて「より多く時」であると言われない。
量に独特なことは「等しい」「等しくない」と言われることである。
物体も数も時も「等しい」「等しくない」と言われる。
量以外のものは「等しい」「等しくない」と言われない。
例えば状態や白は「同様な」と言われる。
【感想・考察】
【1】関係と反対について
関係的なものとは、その本質が何かとの関係においてあるもので、また一方反対なものは、他と比較することなく独立にあるもので、同じ類の中で最大の隔たりを持つ2つのものということになる。反対のものは同じ実体が交互に受け入れることはできるが、同時に持つことはできない。
Aさんの身長が160㎝でBさんの身長が180㎝、またAさんはBさんのいとこであり、AさんはBさんの妻で、AさんはBさんの親分で、Aさんは白色でBさんは黒色であったとする。
AさんとBさんを比較する時、身長で捉えたらAさんはBさんより小さいとなる。親族関係で捉えたらAさんはBさんのいとこであり、夫婦関係で捉えたらAさんはBさんの妻である、親分子分関係で捉えたらAさんはBさんの親分であるとなり、小さい、いとこ、妻、親分は関係となる。
ただ夫婦と親分子分は、まず夫婦関係や親分子分関係という関係の概念があって、それを導入したことによって、AさんとBさんはその状態になったと言える。ただ今の状態となった成り立ちとしてはそうかもしれないが、今の状態になった上でのことでは、小さいやいとこと同じ、AさんとBさんの持つ関係である。
大小は、AさんとBさんを比較した時、小さいや大きいが出てくるが、比較する前もAさんがBさんより小さいことは事実として既にある。これは他のものも同じで、関係とは事実として既にあるものを捉えていると言える。関係というのはこの捉えられた関係の認識の方ではなく、既にある関係的事実のことを指す。
またAさんには白色という事実もある。しかしこの白はBさんと比較したことで白になったのではなく、他のものとは独立に白としてある。10章には対立には関係と反対と所持/欠除と肯定/否定の4種があると書かれているが、白黒のように独立にあるもの同士が対立しているものが反対となる。Aさんの独立としてある160cmは何とも対立しておらず反対とはならない。
【2】2点を背後に持つ関係について
ただしAさんはBさんより白いというのは関係となると思う。より白/より黒というのは背後に真っ白と真っ黒という2点があり、その間で白により近い/遠いまたは真っ黒により遠い/近いということなのだと思う。例え背後の真っ白や真っ黒を意識せずただより白いと感じ、そのように言っていたとしても、結局は背後の2点への近さ/遠さということになっているということなのだと思う。真っ白と真っ黒が反対なのであり。より白/より黒というのは関係なのだと思う。このような関係は、2点を背後に持つ関係であると言ってよいと思う。大小のような関係は、背後にそのような2点はないので、2点を背後に持たない関係であると言ってよいと思う。
2点を背後に持つ関係には、その2点が反対なものである場合と、そうでない場合があると思う。福岡と東京という2点があるが、それは反対でないが、大阪は名古屋よりより福岡、岡山よりより東京とした場合、それは反対でない2点を背後に持つ関係であると思う。
より白/より黒は背後に反対である2点を持つ関係であるので、背後に2点を持たない関係である大小と違い、真っ白と真っ黒という端を持つ。連続量において小は無限に小さくなれ、大は無限に大きくなれるので端を持たない。またもし仮に0を端に置いてよいのであれば、また数においては1が最小であり端であるが、大の方に端がないので両端を持てないのだと思う。
アリストテレスが大小は反対でないと示したのは、同じものが同時に大小を持つということを示したからで、またそれについてはより白/より黒、より福岡/より東京という背後に2点を持つ関係についても同様に同時に持つことができるので反対でないとなる。ただしそれらの背後にある2点である白と黒、福岡と東京は同時に持つことができない。同時に持てないというだけでは反対になれず、最も隔たっている必要があるので、白と黒は反対だが、福岡と東京は反対でない。大小は端がなく、背後に2点を持たない関係であるので、背後の2点が反対となるということはない。
親分の子分、またその子分、またその子分・・と続くとして、一番最初の親分を大親分、一番最後の子分を大子分とした場合、親分子分の関係は大親分により近い/遠いまたは大子分により遠い/近いということとなる。この場合大親分と大子分は背後にある反対でない2点となる。また大親分をAさん、大子分をBさんとして、よりAさん(=よりAさんに近い)とした場合、AさんとBさんが背後にある反対でない2点となる。ただこのAさんは大親分としてのAさん、Bさんは大子分としてのBさんということとなる。
ただし大小は端がないので2点を作ることができない。しかし大小も10を最小として80を最大とするなど有限な範囲として考えられたものなら、同様に背後の2点を持つ関係であると思う。その場合10と80は最も隔たったものでなく反対でないので、背後に反対でない2点を持つ関係になると思う。
1ペーキュス(肘から中指の先までの長さで45cm)とはとある線という量を数で指し示すものだが、これ自体はラベルとなる。これはcmで表すと45cmとなり、この量からするとペーキュスと比較するかcmと比較するかで変わるものであり関係となる。しかしこの1ペーキュスが指し示している量自体は関係ではない、その意味で1ペーキュスは量であると言われるのだと思う。この量は3ペーキュスと比較して1/3倍という関係を持つ。
【3】質の程度性について
もし仮に白黒の程度性を量で表すとしたら、例えば真っ黒は白度0、真っ白は白度100とするなら、その場合は程度性は量自体の変化となる。そこで例えば30とかの量自体は、程度性は持たない。30に「より30」というものはない。では反対性については、30という量は反対なものは持たない。では0と100は反対かというと、量はその後200、300と続いていくので量自体は反対でない。白は量の付帯的なものであり、量ではなく質であるが、この真っ黒(=0)と真っ白(=100)という質が反対ということとなると思う。
ただ実際白と言われているものは、真っ白なんてものは少なく、例えば白度90とかそういう色となると思う。そういう色を見て黒の反対という時は、その白度90という色から、その90を占める白そのもの、つまり白度100の白をイメージし、それが白度0の黒と反対であるということを言っているのだと思う。白度90とはつまり黒度10ということであるが、これは白と黒という反対のものを同時に持っているということになるかということについては、これは白度90黒度10の中間色なのであり、この中間色は他の中間色とも、白度0の真っ黒とも、白度100の真っ白とも同時に持てないものということであり、同時に持てないというのは要素が混ざっているということを言っているのではないのだと思う。
また程度性を量で表すことができたとしても、質は質のままで量になることはない。人生を20歳、25歳、30歳・・と量で表したとしても、それぞれの年齢で様々なことがあったのであり、決して量に換算することはできない。白度30という質と白度31という質は全く違う質となり単なる量の違いではないと思う。白度30という色自体は程度性を持たず、オンとオフしかない質だと言える。程度性のある質というのは連続性のある一方向に増減する質を一つの纏まりとしてくくったもので、人生で言えばアラフォーという質であり、これは35歳から44歳をくくったものである。しかし程度性とは量なのか質なのか。例えば35歳、36歳・・というのは量である。しかしもし質として考えるのなら、35歳と36歳を1つの質としてくくって、また37歳から44歳までを1つの質としてくくって、これら2つの質をくくってアラフォーの質の一形態としての質を考えた場合、これは程度性を質で表したと言えるかもしれない。これを程度性(質)とし、35歳、36歳・・というものを程度性(量)というものとする。
白の程度性(量)である白度は光の反射率のようなもので簡単に表せるが、正義という質の程度性(量)となると中々簡単に表すのは難しい。より正義である/より正義でないという差異については分かる。程度性(質)で考えるなら、こちらの方がより多く正義であると感じられるということであろうか。
また量とは「どれだけか」と問われ、「これこれだけのもの」と答えるものである。その2つの関係を問われた時は、等しい/等しくない、より多い/より少ない、1/3倍/3倍などと答えるものである。一方質は「どのようか」と問われ、「これこれ様のもの」と答えるものである。その2つの関係を問われた時は、同様な/同様でない、より多く白だ/より少なく白だ、より白に近い/より黒に近いなどと答えるものである。2つの白度30の色があったとして、その2つは量として30が等しいとされるが、それら2つの色は量として測ったら白度30となるものとして同様なと言われるということなのだと思う。
【4】程度性は究極的には量で表せる
甘さという質のある食べ物も、結局は物理的構造という量や所(どこか)や時(いつか)や体位によるものであるように思う。これが感覚器官という物理的構造に影響を与え、それが脳の電気信号という物理的構造になり、それが甘さという感じ方の質を生み出すのだと思う。それによりその人がこの食べ物に甘さという客観的な質があることを把握するのだと思う。アリストテレスの言う質とは、感じ方の質でなく客観的な質の方であるように思う。そうであれば甘さとは結局は物理的構造によるものであり、その程度性は量で表すことができるのだと思う。10cmという量も、これと同じようなやり方で人間は把握するが、量はくくり方でなくそのままのものであるのに対し、質はくくり方という違いはあるのだと思う。くくり方というのは、人間は可視光線でくくって色の質を捉えるが、紫外線が見える動物は紫外線までくくって色の質を捉えるというように、くくり方ごとに質があると言えるのだと思う。
もし人によって甘さの指しているものが違うというなら、それは甘さAと甘さBという異なる質があるということでそれぞれに程度性がある、またはその甘さAと甘さBをごっちゃにした甘さというものを考えるなら、ある観点における程度性と別の観点における程度性と、程度性を異なる観点に分けるということとなると思う。正義という人間の行動の質も、あらゆる人間やその行動は結局は原子の集まりであり、物理的構造であり、究極的には量で表すことができるのではないかと思う。しかし現実的にはそのような量を把握することは困難なので、正義のような程度性は、差異だけしか分からない、というようなものなのだと思う。
白度は光の反射率でも表せるし、白と黒の絵の具を同じ量用意して、その混ぜ合わせた体積から出すということもできる。そして0から100の値としたとして、一方の30がもう一方の90に当たるということも起こるが、この場合もそれぞれは一対一対応しており、0~30がもう一方の0~90に当たり30~100がもう一方の90~100に当たるということで、一方のより多いがより少ないと逆転するということはない。そうであればこれらは同じ量で、絵の具の混ざり具合も物理的構造であり、非常に細かく物理現象を見れば光の反射率に換算することは可能だと思う。線、面、物体、場所は本来的量であるが、計測によって線、面、物体となるようなものは二次的量であり、それらは計測の仕方ごとに現れ方は異なる。ただしある値以上は0になってしまうような計測法の場合は、それ以上は差異がでなくなってしまうので一対一対応しなくなるということがあり、また一方で0に当たるものをもう一方で∞に当たるように対応させたものは、0より先のマイナスの量を対応させることができないなど、あくまで対応している範囲においてであるが、それらの量は結局は同じものであると思う。
【5】質を原子配置や要素のくくり方として考える

白という質は結局原子配置のくくり方であり、またより大きく見れば要素のくくり方である。量はくくっておらずそのままのものとなる。その実際の原子配置は分からないが、例えばABCDという4つの原子の四角形の配置だとして、ABDの位置が固定だとして、Cが横の直線上を動く。CがFより左に入ったらABCDはへこみ四角形という原子配置となる。ここからどれだけ左に行ってもへこみ四角形のままである。またCがGより右に入ったら、ABCDは長四角形という原子配置となる。そしてCがFとGの間にいた場合は中間四角形となる。
ABCDの原子配置がへこみ四角形の時は真っ白という質となり、長四角形の時は真っ黒という質となり、中間四角形の時は中間的な色となる。真っ白はオンオフの質で、程度性はない。しかし程度性のある白という質のくくりは、大体CがFとGの真ん中辺りから左に行った構造に当たるものだと思う。真っ白がオンオフの質だとしても、白として程度性のある質としてくくっているようなものは、その境目が人間にはよく分からない。
しかしインフルエンザのような質は、オンオフがはっきり分かる。インフルエンザのような質は、CがFに接近して行っても、その状態は程度性のある質としてくくられないためとなる。
またこの図を原子配置でなく要素のくくり方と考えることもできる。白の程度性(量)は光量という計測法で表すことができる。その場合Gは光量0、左の果ては∞、右の果ては-∞となる。Cは光量という要素だが、ABDはまた何か他の要素となるが、今回は固定で考える。
Fから左に無限に進んでも、真っ白のままなので、これにより∞は埋められ端となる。一方Gは光量が0になり、量が0未満の現実的な量は存在しないので、そのGである黒という質は端となる。また原子Cの動きとして考えるなら、Gより右に無限に進んだとしても、それらは全て長四角形となり真っ黒という質のままであり、∞が埋められ端となる。
端と端ができたことで白と黒は反対となり、その間FGは程度性(量)で100~0として表されることとなる。ただし0と100という量は反対とはならない。この0~100は無限に続く量からの区切られた量であり、その意味での端はある。0~100しかないという前提の上での101という数は人間にはイメージすることはできない。ただ数だけは101など増やすことはできる。
量とは有限なものとして区切ることのできるものであるが、その区切られた両端という場所は反対を持つと言ってよいのだろうか。例えば石は物体として区切られたものであるし、モニタの画面も区切られた面である。日常的には、2人で石を持つとして、1人が端を持ち「反対側の端を持って」などと言うし、モニタについても画面の右端と左端を反対の端と言うし、区切られた量においても使うように思う。しかし量は反対を持たないとされているので、反対ではないが、量的反対と呼ぶとする。そこでもしモニタの右端を石の左端に当たるようにモニタと石を置いたとしたら、その場所はモニタとの関係においては右端、石との関係においては左端となり、区切られ方との関係となる。その場所自体は量的反対はない。0と100の量に反対はないが真っ黒(=100)と真っ白(=0)に反対があるように、0と100という区切られた量に量的反対があっても0と100という量自体は量的反対でない。程度性(量)とは区切られた量であり、それに対応するのが真っ白と真っ黒とその中間のそれぞれの色であり、量的反対と反対は対応している。
【6】反対と量的反対の違い
重りを乗せると表示が変わるある機器があるとして、重りが0個なら1つ目の画面は真っ黒で2つ目の画面には0と表示される、重りが1個なら少し黒色で1と表示、2個なら少し白色で2と表示、3個なら真っ白で3と表示、4個乗せると真っ白で3と表示は変わらないが、その横にランプがつく、それ以上乗せてもずっとそのままというものだとする。これは数字の表示について考えると、4個以上の重りは全て3とランプという形に纏められていると言える。この機器にとって4という表示は幻の表示ということとなる。その幻の表示を可能性として想像することはできるが、現実には起こらない。0~3の表示は、4や5といった幻の表示から考えると、区切られた量であると言えると思う。また色の表示について考えると、4個以上の重りは全て真っ白とランプという形に纏められていると言える。もし重り4個に対応する幻の質というものを想像すれば、例えば重り4個を載せるととてもカラフルな色が表示されるなど、想像することはできる。それをAの質として、重り5個の場合はBという質と想像することはできる。そうであれば今の真っ黒~真っ白の表示は、AやBといった幻の表示から考えると、区切られた質であると言えると思う。重りの個数は0から無限へと増やして行けると思う。ただ0個より少ない重りというものは現実には存在しない。これについても想像力で幻のマイナスの個数の重りを想像することで、重りの個数も区切られた量であるすることができる。そしてそれにより幻の-1の表示やaという質も想像することができ、そちらからも区切られた量や区切られた質と考えることができるようになる。
ただし幻の4や5と、幻のAやBの違いは、数は2や3がある時点で、4も5も、100も200も、全てが決まってしまっている。一方質の方は、4に何の質を当てようか、5に何の質を当てようか、もうずっと白でいいか、というのはまだ決まっていない。ただし何の質を当てるかという時の質とは、感じ方の質であり、今は客観的な質の方を質としているので、感じ方の質としてまだ割り当てられていないということは影響しない。
または白は新しい4や5の質を作る時、∞まで埋まっている白という質が白、Aとなり、またこれが白、A、Bとなり∞まで埋まっている白という質を分割していっている。それに対し数は4、5と追加していっているように見える。しかし区切られた量において、3という∞まで埋まっている量が、3と4に分割され、またそれが3、4、5と分割されということで、その一番右の数が∞まで埋まっていることに変わりはないので、これについては質との間に違いはない。
ただ区切られた質は、∞の埋まっている質に区切られているが、区切られた量は、∞の埋まっている区切られた量にも区切られたものとなれるが、∞の埋まっていない区切られていない量にも区切られたものである。反対の定義とは「同じ類の中で最も隔たっている2つのもの」であるが、質は質の中で最も隔たっているものとなる。一方、区切られた量は区切られた量の中で最も隔たったものとなるが、区切られていない量まで含めて量という同じ類とすれば、最も隔たっているものとはならない。このためこの考えでは、反対の定義に反対は該当するが、量的反対は該当しないとなる。
量の中で数と言葉と時間は無限に続くので端はないが、線と面と物体と場所は、現実的に考えれば有限の宇宙の中にあるので端はあるとなるが、理論的に考えれば無限に続くので端はないとなる。そしてまた線と面と物体は理論的な面に着目された概念であるが、場所は現実的な面に着目された概念であると思う。そのため場所は有限な宇宙の中で考えられるものであると思う。
古代ギリシアの人々は、宇宙の端を上という場所、宇宙の中心を下という場所とし、それらは同じ類で最も隔たっているものとして反対としていたという。宇宙の中心と端は理論的な区切られてない量から区切られた量であるので、量的反対を持つ。ここで、反対の定義における同じ類についての別の考え方として、まず区切られた量は、有限な宇宙の現実的な量と、それ以外の区切られた量の2つにわけることができるが、それ以外の区切られた量は有限な宇宙の現実的な量に区切られたと考え、同じ類を有限な宇宙の現実的な量だけと考える。古代ギリシアの人々は恐らくこのような考えから、宇宙の中心と端の場合は、反対の定義に該当すると考えていたのだと思う。ただ結局はこれは定義をどうするかという問題であるように思う。
また人間は感覚器官によって作られた感じ方の質に頼って、客観的な質を把握するが、これは感覚器官によって決められているものであり、人間が自由に変えることのできるものではない。一方区切られた量というものは、人間が簡単に作ることができる。
例えば、光は光量を小さく大きくしたら黒白と変わるように、波長を長くしたら紫青緑黄赤と変わっていく。そこで緑より波長の長いものは全て緑という同じ質とする、と決めたとしても、波長を長くしていくと人間の感覚として黄、赤という質が現れ、人間の感覚として緑以上のものを同じ質でくくることができない。反対とされるものは、白や黒のように、人間が感じられる一番端の質となっていなければならない。波長を大きくしていくと赤外線となり、また小さくしていくと紫外線となるが、人間は赤外線も紫外線も質を感じられない。一方赤外線や紫外線を色として検知できる動物にとっては、この2つは人間にとっての白黒のように反対の質と感じられる。感じ方の質を通して把握される質は、動物によって違うものとなる。
石の周りに空気があるとして、感覚器官はその石の質と空気の質を感じてその区別をする。また量としてもここまでは石、ここまでは空気というのが決まっている。これについては人間が自由に決めれるものではないと思う。ただ日本というものを考えると、その陸地は自然に決まっているものだが、領海を含めて日本とすると、その均一な質である海に境界を引いてここまでが日本、とするのはやはり人間が決めているものであると思う。
【7】 幅のある質と幅のない質について
量には線、面、物体とあるが、例えば面で考えると、三角形や四角形がある。量は相互に位置を持つので単なる面積とはならず、三角形や四角形というものになる。またそれらは三角形や四角形という形という質を持つ。多くの三角形という量をくくったものが三角形という質となる。正三角形は様々なサイズのものがあるが、それらをくくったものが正三角形という質となる。直線も様々な長さのものがあるが、それらをくくったものが直線という質となる。
二等辺三角形や直角三角形は様々な形があり、これを幅がある質と呼ぶとする。また正三角形は一つしか形がないので、幅のない質と呼ぶとする。二等辺三角形は、底辺頂点間の長さを変え、底辺の長さと底辺頂点間の長さの比率を変えることができるので、幅があるが、しかしそれは一次元なので、一次元的な幅を持つ。一方三角形という質を考えると、底辺を固定し頂点を動かすとなると、二次元的に動かすことができるので、二次元的な幅と言える。正三角形の場合は幅がないので、内部的な質の変化は起こせない。もしサイズを変えたとしてもそれは質の変化でなく量の変化となる。
質は、程度性のないオンオフの質と、程度性のある質があるが、まず幅のない質はオンオフの質となる。また程度性のある質もその全体として見ればオンオフの質となる。二次元、三次元の幅は程度性と見られないので、全体としてしか見られないのでオンオフの質となる。一次元の幅があっても人間が認識していなければ、全体としてしか見ないのでオンオフの質となる。
そして例えば、二等辺三角形の、底辺頂点間の長さをある長さまで伸ばしたら、そこからは尖り二等辺三角形という質として捉えるようになったら、そこからは一次元的な長さを伸ばす度合いを尖り度合いという程度性で認識することができる。それまでは内部的な変化があるのはわかるが、程度性としては認識していないので、全体としてのオンオフの質としか認識しない。程度性のある質はオンオフでなく程度のある質として見られる。ただ全体として見るならオンオフの質となる。
原子配置とは量である。例えば、4つの原子からなる四角形の中に1つの原子がある。5つの原子配置として考えると、それは内部にある三角形の原子配置が複数組み合わさった量の組み合わさった量であり、量であると思う。その量をサイズに関わらず抽象的に同じ形としてくくったものが幅のない質であり、幅のない質をくくったものが幅のある質となる。
直線の長さを変えても直線という質は変わらず量が変化しているだけである。ただもし直線にないある点とその線で三角形を作ったら三角形の形という質は変化しており、それを程度性と考えると両端に反対を持てるように思う。ただその場合もそのような質が反対を持っているのであり、線は反対を持てない、また区切られた線としては量的反対しか持てないとなる。
【8】質を原子配置のくくり方として考えるその他のパターンについて

この図において、痛みという質について考えると、ABCDの原子配置がへこみ四角形となった時に、MAXの痛みの質がオンになると言える。CがHから左に進み、Gになった時に僅かな痛みを感じる。そのGから左は痛みという程度性のある質としてくくられている。Gより右は程度性としてくくられていないので、Gで痛みがオンになった時人間は簡単に気付くことができる。しかしFは痛みという程度性のある質内部の変化であるので人間にははっきりと認識することはできない。またMAXの痛みというものも経験したことのある人は少ないと思う。しかし人間の感覚なので限界はあるはずであり、また程度性が大きくなっていくのは経験しているので、その先にMAXの痛みがあることは推測される、という形である質なのだと思う。痛みと快楽が反対であるなら、痛み100→0、中間があって、快楽0→100という形なのだと思う。
また曲線のふくらみを少しずつなくしていき直線にするとして、その場合へこみ四角形が直線という質となり、Fより右が全て曲線という質とすると、G点というものもなく、また直線はオンオフの質で、程度性も持たない。しかしその場合もCがFに近づいていき直線になるということは確かにあるので、それを接近度性と呼ぶとする。接近度性については量も持つことができ、3という数に、5、4と近づいていき、3となる。直線については、Cが非常にFに近づいたときは、人間の目にはもう直線に見える。その場合はより直線になったとそのわずかな間を程度性を持つ直線という質でくくることはできるかもしれない。しかしその場合でも量はくくることはできず、それはあくまで量の変化となる。
またインフルエンザという質について考えると、へこみ四角形がインフルエンザというオンオフの質で、Fより右がインフルエンザでない状態であり、またインフルエンザの接近度性となっている。
またこの横の直線を時間という量として考えると、Cは左から右へ一方向で進むということとなり、Hが発症前、Gで発症、GからFはインフルエンザに罹っており、Fで消滅、Eが消滅後となる。この場合のGに進んだ時点とFに進んだ時点が、それぞれ通常のモデルの場合での右からFに入ったこと、Fから左に出て行ったことに当たる。CがGの右にある時は、CとGの距離はインフルエンザ発症の接近時間、CがGF間にある時は、CとGの距離はインフルエンザの発症日数、CがFの左にある時は、CとFの距離はインフルエンザの消滅後日数となる。時間は過去も未来も無限に進めることができるので、反対も量的反対も持たない。ただしインフルエンザの発症している期間は、区切られた量であるので量的反対を持つ。またもし無限の時間の中で宇宙の誕生と消滅があるとすれば、同様にそれらは量的反対を持つ。これは宇宙の中心と端が量的反対を持つのと同じ形になると思う。
アリストテレス著『カテゴリー論』(対訳版)
http://hgonzaemon.g1.xrea.com/Categoriae.html