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人生を哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る

自由について


前回の「自由について」で精神的自由のことについて述べた

今回は、それを無意識レベルで考えたいと思う


精神的に自由になるためには、無意識の領域を塗り替えないとならないと思う


人間の脳は、無意識が97%、意識が3%の割合らしい


ということは、ほとんどが無意識で生きているといっても過言ではない


体を動かすのもほとんど無意識なものなのかもしれない


ぼ~っとして、何も考えずに歩いたりとか、話ながら車の運転とか、熱いものを触ったときの脊髄反射など、ほとんど無意識で行われているものと思う


意識の役目は、指令を出すだけだろう


例えるなら、意識はリモコンで、無意識はテレビだと思う


また、意識は運転、無意識は機械本体全部とも例えられるだろう


それほど、無意識の占める割合は大きいのだと思う




感情や思考も、例外ではないだろう


その現象、そのものごとに対する反応は、無意識の領域が占めていると思う


不安や精神的抑圧も、無意識の領域で行われるものと思われる


不安や精神的抑圧は、危険を回避するための本能の防衛本能なのだろう


不安は危険予測、精神的抑圧は人間関係を円滑にするために必要だろう


それらのことは、過去に必要と認識され、無意識に組み込まれたためと思われる


要は、学習だ


恐怖症というのも、過去のある経験により、必要以上に無意識に深く組み込まれた結果、小さな現象まで敏感に察知するようになったものだと思う


また、精神とは関係ないが、アレルギーなどもそれに当てはまると思う


例えば、高いところに行って落ちそうになって、非常に恐い思いをすれば、それが無意識に深く組み込まれ、ちょっと高いところに行っても、その恐怖がフラッシュバックするのだろう


その極端な例が、パニック障害や、PTSD(外傷後ストレス障害)などだと思う


また、人と接していて自分の感情を出したことにより、嫌われた場合、感情を抑えないと人とうまくやっていけないと思うだろう


それが、無意識に組み込まれて、精神的抑圧になるのだろう


このようにして、不安、精神的抑圧は形成されるのだろう


生まれたての頃は、不安も抑圧もないのかもしれない


何が危険かわからないから


少しずつ学習していくことで、そのような機能が備わってくると思う




では、不安や精神的抑圧をやわらげ、精神的に自由になるにはどうしたらいいか?


それは、意識によって無意識を教育することだと思う


要は、自分に何度も言い聞かせ、無意識に叩き込むという方法だ


具体的には、不安や、精神的抑圧が行われたとき、客観的にとらえ、危険ではないと無意識に教えること


無意識を変えるのは根気のいる作業だと思う


しかし、不安や精神的抑圧から解放され、精神的に自由になるためには、無意識を変えなければならない


他にも方法はあるのだろうが、今自分が知ってる方法はこれしかない


無意識というものは本当に複雑で、自分でもほとんどわからない


しかし、間違ったことを学習してしまったら、再教育するしかない


時間はかかるだろうけどね



最後まで読んでいただきありがとうございます^^


自由について

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自由について2

人間誰でも、自由になりたいと思うだろう


自由とは何か?


要は、自分の思うがままに考え、行動できることだと思う


自由には身体的自由と精神的自由がある


身体的自由は、身体が何者にも縛られずに、動かすことができること


精神的自由は、心が何者にも縛られずに、考え、感じることができること


身体的自由は、物理的に体を拘束するものがなければ、可能だろう


精神的自由も、心を縛り付けるもの、抑圧するものがなければ、可能だろう


しかし、心を縛り付けるもの、抑圧するものがない人間は少ないだろう


野生で生きていれば、ほとんど本能に忠実に生きれるかもしれない




しかし、社会を形成して生きていれば、ルールに従い、モラルや道徳を植えつけられる


それを、教育というのだろう


教育は、その社会に適した人間を育てるものだ


悪く言えば、その社会で都合の良い人間に調教することだ


その教育が、良くも悪くも心を縛り付けるものと思う


その社会で生きやすいように、心を作っていくのが教育だろう


身体は環境が変われば、物理的に自由になれる


しかし、心、精神は環境が変わっても自由になれないものと思う


トラウマや、洗脳などが良い例だ


その社会で生きてきて、自分が良いと思うことを、信じてきた


また、それまで自分が良いと思ってやってきたことが、間違ってたとしたら、それまでの自分を否定することとなる


それは、とても苦痛なことだ


そうなると、今までのやり方を守ろうとするだろう


それが、心を縛るものと思う




例を挙げると、ダーウィンの進化論だ


今までは、アダムとイブが最初の人間と思ってきた


しかし、祖先は猿だという理論が生まれた


今まで、自分が信じてきたものを否定しなければならないことになった


否定したくないがために、彼を迫害した


迫害した人たちも、もしかしたら、内心では、感づいていたのかもしれない


しかし、認めたくないがために、迫害した


これと同じで、信じて病まないものであればあるほど、それが覆されたときに苦痛を感じるだろう


心が縛られている状態だ




では、どうすれば自由になれるのか?


固定観念に頼るのではなく、自分で考えることが重要だと思う


しかし、自分で考えるのは疲れる


だから、決められた基準、世の中の基準に合わせて、それが自分の考えだということしているのだろう


そうなると、世の中の基準が変わったときに、自分の基準も変えねばならない


そこで、苦痛が生じる


自分で考え導き出した基準に従えば、世の中の基準が変わっても、自分自身の基準は変わらない


自分の基準があれば、うまく順応していくことができるだろう


世の中の基準にしたがって生きてる人は、世の中に心を預けている状態だろう


むしろ、世の中の基準に縛ってもらってる状態だと思う


自分の基準で生きている人は、自分に心を預けている状態


要は、何者にもにも影響されない状態といえるのかもしれない


その何者にも影響されない状態が、心の自由、精神的自由なのだと思う




世の中の考え方に心を預けるか、自分自身に心を預けるか、それもまた、その人の生き方なので、肯定も否定もすることはできないだろう


世の中の考え方に心を預けるのは、自分で考える必要がなく楽だと思う


また、他者と共感することができ、安心するのも事実だ


これは、程度問題なんだろうね


世の中の考えに心預ける割合が高いか、自分自身の考えに心を預ける割合が高いかだと思う


ある程度、心は縛られているほうが生きやすく、好ましいのかもしれない


しかし、自分の考えがなければ振り回されることとなる


実に難しい問題だね


しかし、何者にも捕らわれず、自分の考えを持って生きていくのが、精神的自由なのは確かなものと思う



最後まで読んでいただきありがとうございます^^


自由について2


人生を哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る


よく自分に厳しい人がいる


なぜ、そこまで自分に厳しくしなければならないのだろうか?


そこまで厳しくして、つらくならないだろうか?


自分に厳しい人は、自分に厳しくしろというメッセージを幼い頃に受け取り、自分に取り入れたのだろう


そして、今日までその考えを守ってきた


疑うこともなく


自分に厳しくなるのはすばらしいという一般的考えはあるが、それは、あくまでそういう思想だ


自分に厳しいのが好ましいとされるのは、向上心が上がるからだ


しかし、それは、考えの押し付けにすぎない


自分に厳しくするかしないかは、その人がしたいかしたくないかだ


あくまで、そうするかどうかは、自分が決めることだと思う



もちろん、自分に厳しくするということは、他者に対しても、他者自身が自分に厳しくなければならないと思い込むだろう


そうしないと自分の正当性を維持できない


その正当性を維持するために、自分に厳しくあることを他者に要求する


結局、自分が幼い頃に受け取ったメッセージを、同じく相手に取り入れさせようとしている


同じことが永遠と繰り返されるわけだ


こうして、伝統や風習が築き上げられてきたのだろう


悪く言えば押し付けだ




しかし、厳しくしたほうが好ましいという事実もある


あくまで、自分で考えて、自分が好ましいと思えば、そうすればいいことだと思う


押し付けなどの固定観念で考えるのではなく、自分にとって、自分の生き方にとってどうかと考える必要があると思う


人間自由に生きていいと思う


自分の考えや感情に従い生きていいと思う




しかし、固定観念にたより、自分で考える必要がなくなると、楽なのも事実だ


もちろん、固定観念に従い生きるのも悪くはないと思う


自分の固定観念を相手に押し付けるのは、好ましいかどうか、ただそれだけが問題だと思う



最後まで読んでいただきありがとうございます^^