哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る
Amebaでブログを始めよう!

人生を哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る

人間だれでも、自己主張するのが好きだ

 

どんなに無口な人でも、酒が入ると自分のことを語りだす

 

 

もちろん、すぐ寝てしまう人もいれば、ずーっとうなずいている人もいるけどね

 

 

しかし、だいたいの人は、抑制がなくなると語りだす

 

 

人生経験豊富で雄弁な人なんかは、説教に発展する勢いだ

 

 

 

 

やはり、人間は自分を理解してほしいのか、自分のすばらしさを誇示したいのか、いろいろだと思うが、しゃべらず・語らずにはいられない生き物なのだろう

 

 

 

 

一人暮らしのご老人も、普段しゃべらない分、話出すと溜まったものを吐き出すかのように、しゃべりだす

 

 

また、一人暮らしを始めると、独り言が多くなるということも聞くが、同じような原理なのかもしれない

 

 

ニコ生、ツイッター、ブログなども、それに準ずるものなのかもしれない

 

 

 

 

逆にしゃべらないと、うまくしゃべれなくなる

 

 

 

 

余談だが、私は独り言を発しない性格だ

 

 

私は大学時代に、2週間ほど誰とも会わずに、アパートにひきこもっていた時期があった

 

 

そして、2週間ぶりに友人に会い、しゃべろうとしても、頭で考えるスピードに口がついてこなかった

 

 

まさに、呂律が回らずカミカミの状態だねw

 

 

1時間ほどすると、ようやく本来の呂律に戻ってきた

 

 

人間の機能というものは、こんなにも早く退化するものと痛感した

 

 

やはり、しゃべることは本能であり、それを抑制すると、なんらかの障害が出てくるものなのかもしれない

 



 

話は戻るが、では、なぜ人間はしゃべりたがるのか?

 

それは、人間が生きていく上で、情報共有が必要だったからなのかもしれない

 

 

人間が氷河期を生き抜く上で、獲物など食料の情報などは必須だったのかもしれない

 

 

人間には、他の動物のように、牙や爪、運動能力など絶対的な狩り能力はない

 

 

道具なども最初は石だった

 

 

そんな狩り能力のない人間が生き残る上で必要だったのは、情報共有することで、策略的に狩りすることだったと思う

 

 

人間がしゃべるのが嫌いだったら、情報は共有されずに、狩りに失敗し、絶滅していたかもしれない

 

 

もはや、生きるための本能だったんだろうね

 

 

 

 

これは人間関係に応用できると思う

 

 

 

 

人はしゃべりたい生き物だ

 

 

じゃあ、どうすればいいか?

 

 

聞いてあげればよい

 

 

聞き上手は好かれるというが、本能を満たしてあげることができるから、生理的に好かれる

 

 

相手が話すのに対し、リズムよく相づちを入れることで、聞いているというサインを継続的に入れるのが効果的だ

 

 

また、相手が望むような質問やコメントをすることで、理解しているという意思を伝えることが、さらに好意を増すと思う

 

 

結局、相手の本能を満たしてあげることができれば、それは好意につながるからね

 

 

話も交通安全と同じで、譲り合いだと思う

 

 

お互いの話の譲り合いが、平和を生む

 

 

人生という道路を、平和に走りたいものだね

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^


 

優良出会い系サイト 優良出会い系サイト 安全な出会い系サイト 人気の出会い系サイト

人生を哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る

誰でも、いじめについて考えると思う


もちろん、いじめの加害者や被害者になる人もたくさん存在するだろう


しかし、なぜ、いじめというものが起こるのだろうか?


みんな仲良く平和に共存できればいいじゃないか


いじめの心理について考えたいと思う




いじめは、優越感と劣等感が原因だと、個人的に思う


優越感は快感、劣等感は不快な感情だ


簡単に表現すれば、いじめは優越感を得て、劣等感を解消するための行為だと思う




優越感を得るためのいじめは、自分より弱いと思える人に行うものだろう


自分より弱いと思える人間を迫害することで、さらに弱い人間に仕立て上げ、相対的に自分が上になる


相対的に自分が上になれば、優越感を得ることができるだろう


優越感は、比較することで得られる感情だからね


そして、優越感の感情に耐性ができていき、満足できなくなってくる


その結果、さらに優越感を得たいがために、いじめがエスカレートしていく


もちろん、いじめる側の人間にも罪悪感はあるだろう


しかし、優越感の快感に溺れ、歯止めが利かなくなる


実に残酷だ




劣等感を解消するためのいじめは、自分より優れていると思える人に行うものだろう


自分より優れていると思える人間を迫害することで、優れていると思える要素を消していき、相対的に自分が下から上にあがる


相対的に下でなくなれば、劣等感を解消することができるだろう


劣等感もまた、比較することで得られる感情だからね


そして、劣等感をさらに解消したいがために、いじめがエスカレートしていく


どんどん、下に落とせば落とすほど、劣等感が解消されていき、今度は優越感さえ感じることになるだろう


そして、歯止めが利かなくなる


足をひっぱるってのは、このことだね




いじめる側の人間は、自分の弱さを自覚していると思う


自覚しているからこそ、それが苦痛で、いじめに走るのだろう


自分の弱さを否定したいがための行為と言えるのかもしれない


被害者からすれば、迷惑極まりない行為だ


また、いじめる側の人間の家庭環境が、ひどいケースも多いと思う


日ごろ味わってる屈辱を解消するための代替方法として行っているのかもしれない




いじめをなくすにはどうすればいいか?


結論からいえば、罰則を強化する以外方法はないと思う


犯罪も罰則があるからこそ、抑止力になっている


いじめも犯罪も、自分の欲求を満たす行為だ


いじめも犯罪のように罰則を強化しなければ、欲求に負けて行為におよんでしまうだろう


よく「いじめはひどい」、「いじめをするのは最低だ」、「いじめられる側の人間の気持ちを考えろ」とか言うが、いじめを行う人間は、そんなことを考える余裕はないのだと思う


考えたとしても、その欲求を抑えることができないから、いじめを行ってしまうのだと思う


優越感を得て、劣等感を解消したいのは、もはや本能だ


本能を抑えるためには、きついペナルティーを課すしかないと思う


まさに、犯罪が行われる心理と同じだね


しかし、いじめ関してはなぜか寛容だ


道徳やモラルを諭し、罪悪感を与えることにとどまっている


いじめを行う人間からすれば、本能を満たすことにとらわれているため、理性で考えるのは困難だろう


そんな、愚かな人間は、罰則をもってして治めるしかないと思う


動物のように叩かなければ、わからないだろうからね




いじめは、被害者の人生に大きな損失を与える、非常に卑劣な行為だ


死に至るほどの問題なのに、愚かな教育関係者身の保身のため、なかったことにされる


その学校でいじめが起きれば、教育関係者の評価が下がるらしい


そんな、お役所仕事のようなシステムが、いじめの隠蔽につながるのだろう


教育に関する法律を大きく変える必要があると思う


そして、いじめの加害者を、厳しく罰する法律ができることを、切に願う



最後まで読んでいただきありがとうございます^^

人生を哲学的・心理学的に思考・追求し、意味・理由・本質を探る


よく考えがコロコロ変わる人がいる


悪く言えば優柔不断


良く言えば融通が利く


個人的には、考えはコロコロ変わっていいと思う


考えをコロコロ変えるのは容易なことではなく、思考しなければならない


普通は型にはまった考えに納まりたいところだ


それだけ、いろんな考え方ができる有能な人だと思う


やはり、状況や心情に合わせて柔軟に考えを変えていくのが、器用な生き方だろう


激動の時代だ


時代に合わせて、考えも激動させなければ、ついていけないのかもしれないね


考えているうちに対応が遅れてしまうということも、こんな世の中じゃあるかもしれない




しかし、優柔不断と思われてしまいがちだ


なぜか?


それは、考えだけでなく、発言までもがコロコロ変わるからだと思う


発言となると相手があるため、考えではなく、コミュニケーションになってしまう


コロコロ発言が変わる人は、相手に対する配慮が足りないのかもしれない


また、あまり考えていなく、ただ思いつきで発言や行動する傾向にある人もいると思う


しかし、やはり言いたいことを言いたいのが人間の性ってやつだと思う


じゃあ、どうすればいいか?


どうしてその考えに至ったかの経緯をしっかり説明して、理解してもらおうとすることだと思う


優柔不断と思われがちな人は、言いたいことだけいって満足してしまっているような気がする


相手に理解してもらおうとしていない、そこにコミュニケーションが成立しなくなる


やはりリアルの世界では、ツイッターのようにつぶやくだけでは、うまくいかないと思う




また、なんでも筋を通そうとし、考えを変える事に罪悪感を持っている人もいると思う


一般的に頑固と呼ばれる人や、道徳やモラルや正義を重んずる人など


もちろん、信念までも変えては自分自身がわからなくなってしまう恐れがある


しかし、信念は「考え」と言うよりは、「生き方」だと思う


例えるなら、「信念は憲法、考えは法律」と表現できると思う


憲法はよっぽどのことが無い限り変わらない


しかし、法律は国の状況などに合わせて適切なものに変えられる


信念もそう簡単に変わることはないと思う


信念が変わるときは、アイデンティティーの危機だろう


しかし考えは、そのときの状況や心情にあわせて都合のいいように変えるのが好ましいと思う


例えば、自分を勇気づけるときは「三度目の正直」、自分を戒めるときは「二度あることは三度ある」などなど


信念という土台がしっかりしていれば、どんなに考えが変わっても、自分を見失うことはないと思う


自由自在に考えを変えていいと思う



なんでもかんでも筋を通そうとすると、自分の本当の感情が抑圧され、生きている心地がしなくなるかもしれない


でも、発言するとなると相手があるため、ある程度、筋を通す必要がある


しかし、せめて自分の中だけでは、正直な考えや感情で生きていいのではないだろうか?



最後まで読んでいただきありがとうございます^^