太多線・可児駅 岐阜の駅をぐるり8 | 駅が大好き!misakitty

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日本中の駅と空港を旅するmisakittyの空鉄の記録です。
国内の鉄道はほぼ完乗済み、航空は、JGC・SFC取得済み2024年はJGCプレミア資格。

この時間は、岐阜県の駅をぐるりします。

本日の駅は、太多線の可児駅です。

 

写真は,平成10〜20年代撮影のものが多くあります。現在の状況とは変わっていることがありますので、参考にする際はご注意ください。

また、当ブログをご利用される際は、必ずこちらの記事「免責事項について」をお読みの上、ご覧くださいね。

では,最後までごゆっくり!

 

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本日は木造駅舎が残る太多線の可児駅です。
駅前にあった腕木式信号機は、訪問直後に撤去され現存しません。

可児駅は、大正7年、当時存在した東濃鉄道という鉄道会社の路線として開業しました。
開業から昭和57年までは広見駅という名称でした。

これは、昭和中期まで、現在の駅がある町が可児郡可児町、可児川を挟んで対岸にある町が可児郡広見町という別の町で、開業したときは、その広見町に駅があったためです。

その後、昭和3年に駅は可児町側に移転したのですが、駅名は「広見」のまま、昭和30年に可児町と広見町は合併し広見町は消滅したものの、やはり駅名は「広見」のまま、ようやく昭和57年に可児市が誕生した際に駅名が現在の「可児」に変更されることとなりました。

駅前は市街地という感じではありません。

可児駅は名鉄広見線の新可児駅と隣接して乗換にはとても便利です。
名鉄の駅もかつては「新広見」を名乗っていました。
路線名は現在も「広見線」ですから、「広見」というのは、ある程度このエリアの中心地的存在だったのかもしれません。
現在は、手前の腕木式信号機が撤去されたほか、JRの構内を跨ぐ形で自由通路が建設されたので、この風景はかなり変わったものとなっていることでしょう。

ただ、計画当初は、JRの可児駅は橋上駅舎化される話もあったのですが、それは頓挫してしまったので、そういう意味では、現在でも木造駅舎が残る光景が守られたと言えなくもありません。

駅舎は開業当初の大正7年建築…って開業当初は、ここに駅はなかったんじゃなかったの???
まさか昭和3年に現在地に移転したときに駅舎ごと持ってきたのか???
そんなことしますかねえ。
それか、元々この地に別の駅があったとか???う〜ん、この財産標には悩みますねえ。

まあ、いいや、駅舎に入ってみましょう。
現在も有人駅です。
TOICAの簡易リーダーは平成22年から稼働しています。

待合部分です。
学生さんがたくさんいたので遠慮気味の撮影です。
訪問の前年まではKIOSKがありました。

構内と駅名標です。
構内は相対式の2面2線、駅名標の右手に三角屋根の建物が見えますが、現在の自由通路ができる前から、地下道で構内の通り抜けは可能でした。

 

(平成26年7月訪問)

 

岐阜 ふるさと市場

 

本日は

岐阜県可児市

から