「田舎司祭の日記」1950年
ロベール・ブレッソン監督作品
新しい任地に赴任してくる若い祭司、病気を抱えながらも生真面目に信仰ゆえ、任地での公務を全うしようとする。
欧州の田舎といえば、たいがいは想像できる…。
映画が始まってから若い祭司に対する同情みたいなものが生まれ、村人たちと教区の古い祭司たちの対応も他人事とは思えないほど考えさせられる。
若い祭司の表情はほとんどかわらない。
映画の中で祭司がつける日記によって初めて知ることになる。
村の子供たちに教えを説く時の喜びや村人たちとの行き違い、そして、夜中に目が覚めて眠れなくなり、真っ暗な中凍えながら教会の礼拝堂に向い独り必死で祈ろうとする姿は画面に映る祭司の表情と相まって気持ちが伝わってくる。
共産主義の温床がどこにあったのか?というものを現しているのかもしれない。
信仰するが故にもがき、傷付き、苦しんでしまう…。それに対して明確なものなど何もない。
絶望しては祈り、祈っては生き、心も身体も擦り減らしながらも誰も理解するものなどいない。
たとえ同じ信仰を持つものであっても「もっとちゃんとした食事をし給え」といった表面的な事しか言えない。それ故にさらに孤独は深みを帯びていく。
信仰を持ってからの苦悩、一番大事な息子を奪われた伯爵婦人に必死になって自分の精一杯の信仰を説いていく。戸惑い、苦悩し救いを求めているのは伯爵夫人なのか若い祭司なのか解らなくなる…。
伯爵夫人は若い祭司の思いで悟ることが出来る。
それを他は理解出来ない、現実的なことだけである。
伯爵夫人と若い祭司の二人にしか分からない。
若い祭司はさらに苦悩し、さらに進んで行こうとするも身体がいうことをきかなくなっていく…。
意識を失い、倒れてしまう。
村人たちの邪推などどうだってかまわない。
この絶望は、神と自分とのもの。
村から病院に向かう時のバイクの青年とのいっときの交流が若い祭司の心を解放し、初めて若い生き生きとした躍動を感じさせ、祭司も若者らしい表情を見せる。
苦悩しながらも許し、許した瞬間に現実を超えた御心の世界を知っていく。
淡々と映し出されるがゆえに監督ブレッソンの激しいまでの心の想いが伝わってくるようでした。