心の問題。

子供の頃から心が苦しくなることが多く、胸が締め付けられるようにずんと重くなるような症状が続き、特に家の外に出るとそれは強く作用して続いた。

それは物事をついた幼い頃から続いていた。

子供の頃は、家に居て漫画ばかり読んでいた。

そうすることが一番心が安定して過ごしやすかったから。

それが漫画から本にかわり本を読んでいる時が一番心が安定するということもあり、好きな本を何度も読み返して来た。

映画は娯楽というより、心の問題の解答がないか?という見方の方が常にあってそういうものを扱っている映画を観るようにしていた。


心が苦しくなるというは常にあって人生の大半は「どうしたら心が安定するのか?」というものが支流の生き方になった。


今でも苦しくなるし、悲しくなる。

ひどい時は、ずっんと頭が重く何か詰まったように痛くなる。これも頻繁にあって「頭が痛い」が口癖のようになった。


今思えば一番辛いのはそういう自分を自分で受け入れられない時ですね…。

日常ただ生きているだけなのに「苦しい」というのが自分でも理解出来なかった。


何が苦しいのか?何が辛いのか?なんてずっと自分の心に聞いてきたが心は明確な答えをくれない

。だからずっと苦しんで来た。


これは極力人に話さないようにしている。


ただ「パニック障害」というものにも似ていてあまりひどくて身動きがとれなくなると人に説明する時は「パニック障害」と説明している。


心の苦しさは身体にも出て、まるで心の中で嵐が吹き荒れているようになり、自分でも抑えられず蹲るようになってしまう。

心臓が高まり、心も身体も重くなるのであった。


それで対策としてひたすら寝るというのが今までの対策法であった。外に出て、常に苦しいものだからそれを何とか物事に集中することで忘れるようにしている。

集中している時はいいのだけれど、集中が切れると途端に苦しくなって身体が動かなくなる。


そんな自分を誤魔化し誤魔化し生きているのが、現状です。


時々、死んで心だけになった時、魂だけになった時、自分はどうなるのだろうか?と思う。


心は何処かで「死」というものを「ようやく還れる」という望郷のような想いを持っているようで心は常にそれを望んでいるようなところがある。

「死」の実態を心はどこまで知っているのか、望みながらもそれを否定するというところが心にはあり、その矛盾が更に自分を追い込んでしまうのです。


とここまで書いて、書いて置きながらもその実体を掴めずにいる。いろいろ模索しながらも心はただ苦しいだけなんだよと言ってくる…。