「静かなる決闘」
黒澤明の監督の作品です。
二十歳ぐらいでしょうか脚本を読んだのは・・・。
映画の内容は、戦時中に負傷した兵士が梅毒を持っており、それを知らずに治療して
ちょっとした傷で誤って梅毒をうつされてしまう青年医師の話で、梅毒がある故に婚約者にも
想いを告げられず、それでも医師としての人生を誠実に全うしようというもの
その映画の中で主人公の青年医師は、心の葛藤をとてもするんですね。
それは婚約者を愛していながらも自分が梅毒を持っているがゆえに
一緒になれないということ。婚約者は、彼がなぜ急に婚約を解消しょうと
言いだしたのか分からずにいて彼女もまた、そんな彼に悩んでしまう。
彼は健全な男性だから当然、性に対しての欲望もあるわけです。
その葛藤の仕方に当時まだ二十歳の私にはとても衝撃でした。
彼は梅毒さえなければ愛する人と一緒になりたいと願うわけです。
しかし、一緒になれない・・・、一緒になれば彼女にも梅毒をうつしてしまうし、彼女だけ
ではなく、今後もしかしたら一生誰とも交われずに過ごさなければならないという・・・。
そして彼は葛藤して葛藤して・・・
結局、どうしても彼の中のモラルが勝ってしまう・・・、性に対する欲望を
自由に放つことができない・・・、そしてその生真面目な自分の中のモラルを
激しく罵るんですね。そして「自分の健全な欲望」に対し「実らして」あげれないことに
詫びたいよう気持ちになってしまう。
当時、これを脚本という形で読んで黒澤明の誠実性というか、性に対する考え方、
性欲よりも自分の中の誠実な部分が勝ってしまうということに
まったくの他人をみるような、聖人をみるようなそんな衝撃を受けました。
自分だったらどうだろう・・・って思ったらこんな誠実な葛藤は出来ないだろうって
思った。
性欲に対してそんなに真摯に真面目に真正面から見つめられない・・・、
怯えるような、ひるむような気持ちになり目を逸らしがちになる。
自然な形で人の中の神性を重んじるようなところが黒澤の映画にはあります。
黒澤明の思想の背景にはドフトエスキーがおり、トルストイがおりそのせいかキリスト教での
思想を根底に感じてしまいます。
キリスト教では狭いな・・・、もっと深く神様まで・・・。
山田太一の作品にもやはり同じ感じのものがあり戯曲「ラヴ」では夫婦を通じて
やはり愛の本質を見つめようとする。
本質を掴もうとして脱線しそうになりながらもやはり、最後は誠実な部分、理論を越えた
ものを見つめてしまう。
そういう黒澤や山田太一の作品を通じて誠実な人柄を感じるとなんだか自分の中の薄っぺらな希薄な
部分がとても恥ずかしくなるのです。