生きるということは

かけがいのないもの


奇跡の連続も

続けば当たり前になってしまう

けれど

空は青いと感じられること

のどかな日差し

秋の深淵

葉が揺れる微かな音


どれも一瞬、一瞬の美に感嘆してしまうほど、世界の美しさが迫ってくる


すべては愛であることを

悟ったとき

わたしは自分の無力さ、小ささに驚く


愛の中でわたしは愛が分からないといってしまう



トルストイの作品で「光あるうちに光のなかを歩め」というものがある。

話しの概要としてある若者が世俗的な生き方に嫌気がさして、聖域なる人生を歩みたいと思い立ち、キリスト教の門を叩こうとします、しかし、その道中に賢者に会い、その賢者に自分の悩みを打ち明けてこれから信仰の道に行くことを告げる。するとその賢者は青年の悩みを丁寧に聞き、問題の根源を社会的な視点から説き、信仰の道にいくよりもその問題は社会的な問題としてこうすれば解決するのだから、立派に学校で学び、両親の元で学び、しっかりと生活を立て直し、社会に出る準備するほうが良いと伝えます。

青年は理論的な賢者の教えに納得して、両親の元に帰り、実社会へと戻っていく。

青年はその歳その歳に悩みを抱え、再び、やはり聖域に立ち返ろうとする、世俗的なものに限界を感じてしまうから…。

それでキリスト教の門を再び叩こうとするのだけども、そこに以前の賢者が現れ、以前と同じように青年から悩みと苦悩を聞きそれに対して理論整然とひとつひとつを丁寧に解決してしまう、そして、それを聞いた青年は元の社会に戻り再び一般社会で努力しようとする…。

少し説明が長くなりましたが大まかな内容はこんな感じです。私は当時これを読んでいちいちイライラしてしまいました。トルストイの意図が全く感じとれないという思いと、敬虔なトルストイが何故、キリスト教、真理に生きようとする若者を登場させながらも賢者によってその内容からもっと踏み込んだ内容、よりキリスト教よりもっとより真理に近づける内容へと昇華しないのか?という事に。

若者に語る賢者の言葉がまた、多く語られそれがしっかり本の中でも語られることへの苛立ちでした。

求めるものに何故トルストイは答えないのか?トルストイ自身も散々苦しんで来ただろうに、それなのに何故?という作品に対する疑問です…。

(付け加えるのであれば最後の最後には青年は歳をとり、高齢の時、全てを導かれて最後にはキリストの元に行きます…。)

トルストイが書くのですから結論ありきなのですが、私はずっと疑問に思っていました。

しかし、調べていくとトルストイの苦悩がより一層に見えて来ました。トルストイは実生活の中でもそして信仰に対しても苦しんで来た人でした。

そうでなければ、人生の終盤で全てを捨てて家を飛び出してあてのない列車には飛び乗らなかったでしょう…。結局は途中で体調を崩し、ロシア南部の小さな駅で息を引きとっています…。

トルストイは「光あるうちに光の中を歩め」の作品の中でも苦しみ続けておられたのかもしれません…。また、ロシアこそ、キリスト教を通じて真理を求めた国はなかったのではないでしょうか?

ドストエフスキーも小説の中にイエスを求め、それと同時に更なるものものを求めていった…。

トルストイは自分自身がイエスと同じように生きようとした。それに対してドストエフスキーは

「白 痴」を通じてイエスと現代社会を描こうととした。どちらも現実的には痛々しい結末が待っているだけども…。

トルストイの試み、ドストエフスキーの試みの作品を通じて問うて来たものが時折、心臓の鼓動を激しくする…。

敬虔の先にあるものに答えがない…。

その先になにも見出せなくなる。


トルストイの作品に対していた長年の疑問が最近、知ることができた。

トルストイの苦悩は今もなおあるのかもしれない。


書ききれませんが、長年の本に対する疑問が解けたので少し書いてみようと思いました。

書ききれないことは分かっていたので「手前のはなし」です。

これで終わります。





今朝、車に乗り込み「外気温度」を見ると何と8℃しかかない…。

寒い筈です。

ちょっと前まで暑くて扇風機回していたのに…。

また、寒さが来年の4月末まで続くのやり切れない…。一年のうちの半年もずっと寒いんだよね…。