『コロナ後の世界』(筑摩書房) 一読メモ

 

小野昌弘(免疫学): ワクチン批判を封じ込めるべく公式見解をなぞってるようで、はっきり言って情けない。免疫学が専門というが、論外。彼が冒頭を飾るというのは、編者の不見識もさらけ出されている。

 

宮台真司(社会学):バイオレントな文体を敬遠する向きもあるだろう。が、見所もいくつかある。「クズのクズによるクズのための政治と経済(企業)が、日本を覆う。生産性は劇的に低く、犯罪者が首相を務める。これでは子々孫々は救われない」など、辛口現代政治批判は首肯せざるを得ない。真性右翼の定義、共同身体性に基づく共同体倫理、等の議論は良質な部類の宮台節というべきか。

 

松尾匡(経済学):東京財団~大和総研~政府がくりだす経済対策の欺瞞を炙り出している。

 

宇野重規(政治哲学)。受賞歴も多く、政治思想の正統な語り部と思えるが、民主主義への理想論的信条はややナイーブにも映る。フランス政治学者ロザンヴァロンの『良き統治』を引いて、「理解可能性・統治責任・応答性」に言及するあたりに、それは見てとれる。欧米でも日本でもかような民主主義は原理的に存在し得ないというのが現実ではないのか。政治学者たる者、先ず、「民主主義」を騙る現代政治システム(メディア・金融との癒着の構造を含む)の宿痾をこそ剔抉すべきではないか。

 

鈴木晃仁(医学史)。コロナ問題を論じるにあたり、食肉に焦点をあてるセンスの無さ。駄文。これで義塾賞受賞歴ありとは正直驚く。否、創始者人身売買斡旋以来日本DSの伝統を引く大学だからこそというべきか。

 

神里達博(科学誌、科学技術社会論):ポストコロナエイジを巨視的通史的に振り返るエクササイズを提供。寓話的語りがユニーク。

 

小泉義之(哲学、現代思想)。彼のフーコーの引用は、最も、時宜に敵っている。「生権力」それは、統計的人口集団の「生」を管理すべく、個体の生命・生活の質を犠牲に追いやる権力システムのことと理解した。今緊急の度合いを深めるトピックである、ワクチン強制を含む医療管理全体主義は正に「生権力」の顕在化である。その起源は救済を旨とする「司牧権力」にあったらしく、後の疾病対策としての、癩病への排除、ペストへの隔離、天然痘への公衆衛生へと展開した。

 

中島隆博(哲学)。彼もフーコーの「生権力」に言及している。哲学的にも現在の重大なイシューと捉えられている証である。

 

柴田遥(社会学)。不可知性をキーワードに、放射性物質以上に感染症とAIが社会を不安に陥れる所以を説く。新型ウィルスと新型AIが結託してもたらす未知のディストピアを、丁寧に描写している。未来への心構えとしてもっておきたいイメージを提供し得ているように思う。

 

大澤真幸(社会学)。執筆陣の中でも大御所的存在か。グローバル資本社会が、人生活圏を拡張して野生生物生活圏とボーダーレス化し、人の流れが高速化したことから、コロナに限らずパンデミックに襲撃される「終わりなき終わり」が常態がするのが、われわれが住む現代社会であるとしている。そこからソフィーの(究極の)選択、BI論、MMT論批判へと展開しているが、前提としてまずパンデミックありきの議論を相対化する視点がないところに、冷静な知の営みというよりもやや浮き足立った知識人のモノローグという印象も拭えない。

 

今、公衆衛生が巨大な生権力(全体主義的医療管理統制社会における人類家畜化または企画製品化計画)として顕在化しつつある、とわたしには見える。【弱毒コロナ+無意味PCR+有毒ワクチン】を三位一体のセットで半ば(社会構造的に)強要し、ヒトDNA8番染色体に非倫理的介入を目論み、人類を企画製品化し特許取得者の所有製品の如くに扱い、「奴隷>(それ以下の)家畜>(それ以下の)規格製品」のレベルでヒトを管理する(時に恣意的に(データに基づき)消去する)ことを夢想する。

 

これなど一部未来学者がもてはやすトランスヒューマニズム(Brain-Computer Interface)の世界観とさほど懸隔するものではないのではないか。今や、ワクチン強制は無理とみて、希望者への無料接種を打ち出しつつある。余談を許さぬ状況が続く。

SATO