そういえば、当初、ブログを始めたきっかけに、2011年の「東日本大震災」があった。

ちょうど、大学4年のときであったが、卒業式が中止となり、大学院の入学式もなくなり、大学の授業が5月からとなった。そのときのちょうど、私の4月の誕生日に、大学のボランティアセンターの第一便で石巻でのボランティアへ参加した。

 

今の新型コロナウイルスによる状況はそのときの状況と少し重なって見える。

当たり前に感じていた日常が崩され、否応もなく、これまでの自分を振り返えざるを得ない時期となっている。

これまで、ほぼ土日は埋まっていたが、今はほぼ予定はない状況である。

毎日、仕事に追われ、考える余裕もなく、毎日、帰ったら寝るといった生活だったが、今、皮肉なことだが、じっくり考えたり、本を読んだり、英語の勉強をルーティンにしたりと、今までではあり得ない生活となっている。

 

「変化」としては、テレワークが一般的になったこと、ウェブでも会議が行えるようになったこと、ICTを利用した授業を考えていくことが求められるようになったことなどである。

 

少し前までは「テレワークなんて、とんでもない。」と強く否定されていたところ。大きなことがないと「変化」はできないのが、現場の辛いところだが、確実に時代は大きな転換を迎えるだろう。

 

今の高3は英語の民間試験や共通テストに振り回され、今回のコロナの影響でまともに授業も受けられずで、本当に不憫であり、何らかの対策を早く打って欲しい。

 

コロナの広まりはグローバリゼーションの結果が目に見えた形で現れた。

しかし、グローバリゼーションとは裏腹に、内向きの排外的な潮流も世界に見え始めたところだった。現在、コロナの影響で、「鎖国」的な状況を取らざるを得ないこととなっているが、こういうときにこそ、内向きになるのではなく、目に見えない連帯が必要である。マスク不足から、多くの物資を中国へ依存していることも、多くの人が認識するようになった。人の移動だけでなく、モノの移動でも依存し合い、協力し合っているという状況を再認識している。

 

オリンピックの影響で「外国人観光客」「おもてなし」などというキーワードで、突き進んできたところだが、コロナ収束後、どんな世界になるか。排外的な傾向が強まらないかと懸念する。違った他者を受け入れ、共存しあっていくというより良い世界の在り方を考えていきたい。

                                                      (Naka-shun)