Lingua Franca Coreに関する論文メモ

 

今中昌宏「日本人英語学習者のための音韻に関するLFC (1) 」Phonological LFC for Japanese(1)

 

前回1月、音声指導を扱ったALIPSで、Jenkins(2000)らが唱導するLFC(Lingua Franca Core:共通語としての英語の中核的要素)への言及があった。詳細を見れば粗いところもあり、実効性は不十分と判断せざるを得ないものの、音声指導を考える際には継続的に考えていくべき論点とも思われた。

 

上に掲げたのは、そのLFCの音韻面を日本人英語学習者向けに構想する方向で書かれた、今西論文。

 

以下の指摘は、基本的な認識としてもっておいてよいと感じた。

 

Kachru (1992)が唱導する三つの英語使用サークル(three circles of English)の外円圏(Outer Circle)におけるESL (English as a Second Language)モデルには基本的にそれぞれの国や地域で歴史的に確立した型(institutionalized model)がある。例えばインドやフィリピンにみられる、それぞれの特徴ある英語である。いわゆるNS モデルではない、誰が聞いてもすぐにIndian EnglishやFilipino English とわかる性格を有している。一方、日本のように純粋に外国語として英語を学習する国や地域は拡張圏(Expanding Circle)に属する。日本については、日本語の影響を受けた日本語的英語があるとされているが、拡張圏では国内に必ずしも明確な形で英語が常用されるコミュニティ等があるわけではない。従ってぼんやりとした日本人特有の英語発音のイメージは確かに存在するが、目標とすべき日本人学習者向けのモデルとして明確な型のようなものは見当たらない。そのため日本で行なわれてきた英語教育は、伝統的に民族英語の米(GA)・英(RP)のモデルを手本としてきたことにはある意味で必然性があった。(今中, p.4)

 

Inner Circle ネイティブ圏  --- ネイティブモデル

Outer Circle 公用語圏(いわゆるESL圏)--- ESLモデル

Expanding Circle 外国語圏(いわゆるEFL圏)--- ネイティブモデル(EFLモデル不在)

 

しかし、ぼんやりとしかイメージできないところに、共通のモデルが構想できるのかという問題がある。NS(母語話者)同士やNS-NNS(非母語話者)のケースのみならずNNS-NNSの場合も含めて、intelligibility(理解可能性)をもとにそれを構想していくという話になるが、それは理論的に可能でも、普及定着させることができるのか疑問が残る。言語使用は理論では片付かない、身体感覚的情緒的心理的要因を多分に含むからだ。

 

上記論文の注で、今中氏は以下のように述べている。

 

「英語の国際化によって、英語はNS の専有物ではなくなった(中略)、外国人の話す分かりにくい英語を理解する努力、言い換えると、NS がNNS の発音や独特の英語に対して歩み寄る努力が必須となったといえる」

 

このような認識をNS一般が共有できればそれはそれで結構なことではある。が、相手がNSであれNNSであれ日本人英語使用者がintelligibleな英語使用をできるようにするためには、どのようなLFCを設定すべきなのか。そこを煮詰めなければ、無いものねだりに終わってしまう。

 

この点、私見では、音声面に傾斜したJenkins(2000)以来のLFCでは、上の要求を満たすようなLingua Franca Coreを構想することはできない。

 

むしろ、interactionであれば、必須機能表現やcommunication strategiesを中心的な論点として議論すべきであろうし、production (sustained monologue, writing)であれば、情報の流れを整序するナビゲーターの習得を論じなければならないはずである。interactionやsustained monologueにおけるコミュニケーション活動をまずホリスティックに観て、その全体性に先にアプローチしてから、しかる後に、マクロの視点にたって、発音の問題(stress, pitch, tone, prosody, intonation)等を議論しなければ、木を見て森を見ずに終始してしまうからだ。

 

音声学は純粋に音の問題(調音、音響、聴覚)。それに対して、音韻論は、音素をもととした音声的な意味世界の話とされる。聴覚的な音声処理は、結局、脳内での意味変換とかかわる以上、意味を度外視した、言語音というのは自語矛盾である。

 

母語以外の言語の音声表現も同様であろう。意味世界から乖離して、音声表現が成立するものではない。そして意味世界とは優れてホリスティックなものであり、全体から乖離した部分の総和で、一つの全体を構想することはできない。

 

そうであれば、LFCの音声面が先にあって、ディスコースを構成すると考えるのも理に反している。むしろ、ディスコースイベントに参画できる方途をホリスティックに探って後に、その細部を方法論的に分析的に論じていくという方向になるのではないか。

 

とここまで書いてから、CEFR Companion Volumeの記述が気になった。

 

CEFR Companion Volumeにおいて、Communicative Langauge Competencesを構成するLinguistic / Sociolinguistic / PragmaticのうちLinguistic competencesには、General range / Vocabulary range / Grammatical accuracy / Phonological control / Orthographical controlが含まれている。

 

そのPhonological controlには、以下の要素が含まれる。

 

►  Overall phonological control (replacing the existing scale);

►  Sound articulation;

►  Prosodic features (intonation, stress and rhythm).

(CEFR Companion Volume, p.135)

 

"replacing the existing scale"とは、native speaker modelからintelligibilityモデルに切り替えたために生じた修正点のことを言っているらしい。sound articulationがいわゆる発音と対応し、prosodic featuresが、強弱や抑揚を含む音の流れにあたると思われる。かなりシンプルな形をイメージしているように思われる。この点、要再考。

(SATO)