「承認」とは勝ち取るものなのだろうか?

確かに私たちは、誰か「他者」に存在を認めてもらうことで、自身の存在確認をしながら生きている。

全くの孤立無援な状態では、人は存在確認ができにくく、生きている実感を得にくい。

例えば「無人島に1人で漂着して、助けを待つ」というケースを想定したとしても、その人は「きっと誰かが助けに来てくれる」という「他者への期待」や「私の帰りを待っている人がいる」という「過去の他者の記憶」があり、それらで他者を想像、想定することで「承認」の相手を求めていると言える。

もちろん、それだけでは自己の存在確認が乏しいだろうから、動物を飼ってみるなど、少しでも「生物」と関わり合えるように求めるだろう。非人道的な監獄に閉じ込められた人が「ハエ」や「ヤモリ」などにさえ「承認」を求めようとするということを聞いたこともある。本当に何もない真っ白な空間に閉じ込められると人は3日ともたず、発狂するという話も聞いたことがある



それくらい私たち人間の「承認欲求」は強い。

では、どうしてそんなに「承認欲求」は強固なのか?

推測に過ぎないが、「承認欲求」が生命維持に欠かせないから、というのが今のところの私の仮説である。

産まれてすぐに自立できない私たち人間は「誰かの手」を借りないと生命維持できない。そのため、本能的にピンチの時には泣いたり、誰かを惹きつけるために微笑んだりする機能は生まれながらに備わっている。赤ちゃんは「感情」を後天的に学び、その感情に名前をつけて仕分ける以前から、そうやって本能的に他者を呼び寄せる機能を備えている。これが「承認欲求」の大元にあるのではないか?

長い前提を書いたが、ここで冒頭の問いに戻ろう。

問いはこうだった。

「承認」とは勝ち取るものなのだろうか?

もちろん、生存競争という意味では「勝ち取る」ものと言えるかもしれない。

しかし、人間は大脳新皮質が発達し、理性を備えた「本能の壊れた存在」でもある。

通常、人間という種は産まれてすぐに自立できないのであるから、当然、親など大人の保護下に置かれる。故にその「親(大人)」を惹きつけるための本能が、先の「泣く」ことや「微笑む」ことだったはずだ。

つまり「人間」という種の赤ちゃんの「本能」はそれを発揮することで、後天的に感情をある程度、言語化し、整理した理性的な「親(大人)」にも通用するようになっているといえ、そのように人間という種の「本能」が自然界にて仕組まれているとも言えるのではないか。

泣いている赤ちゃんを見ると「親」や「周りの大人」達は「お腹が空いてるのかな?」とか「おむつが濡れてるのかな?」と想像を働かせ、あれこれと対処法を考えるのは、そのせいだ。

つまり、人間という種の赤ちゃんの「本能」は、「理性」的な親を動かすことができるように仕組まれていると言って良いと思う。



もちろん「親」の方も「親としての本能」のようなものが、根源的にあるのかもしれない。それが反応するとも考えられるので、理性だけが反応しているものでもないだろう。

しかし、親の側でも「人間は本能の壊れた存在」ということが良くも悪くも働くのだ。

人間は理性的ゆえ、赤ちゃんが泣いている原因を理論的に推測し、より的確に対処する方法を見つけることができるが、

一方、理性的ゆえ「本能」を突き破り、赤ちゃんを放り出すこともできる。いわゆるネグレクトは、人間のなせる技である。もしかしたら、動物の中にも育児放棄しているように見える場面もあるかもしれないが、それは種の生存競争上、必要な「本能」で行っているに過ぎない。

人間のみが「お金がないのに、どうやって子どもを育てろって言うの?」とか「私だってしたいことがあるんだ。子どもなんて望んでなかった」などいろんな社会的制約を理由にして「本能」に組み込まれた子育てを放棄できる。

それが悪いと言っているのではない。人間は、そういう「本能の壊れた存在」ゆえに「本能」を突き破ることができる存在なのだということを言いたいだけだ。

しかし、先のネグレクトの例も制約さえなければ「理由」をつけて子育てしようとしないわけではない。本来的には、環境さえ整っていれば、「子育て」が起こる仕組みになっているはずだ。赤ちゃんがそうした「本能」を示し、それに「親」をはじめとする周りの同種の大人が反応するようにできている。そうでなければ、人間という種はとっくに滅びているはずだ。

ならば、「承認欲求」とは、根源的なものでありながらも、それが「本能」を突き抜けて「理性的な脳」にも影響を及ぼしているものでもあると言え、それ故、「理性的に」捉え直すことも私たちには可能なのではないか?

確かに現代社会は、競争社会である。さまざまな「能力」が比較され、より「人間社会」で生き残るのに優れた「能力」が重宝され、それに惹かれて、男女は結びつく。より有能な遺伝子を求めて、恋愛合戦は行われているようにも思う。

よりハイスペックなパートナーを見つけるために日夜奔走する。そのために、他者を惹きつけようと「承認」を求めて、化粧してみたり、ファッションに凝ってみたり、SNSに充実した生活の写真を載せようと必死になったり…。

そのすべてが「承認」を求める行動、つまり「承認欲求」である。

まるで「承認」を得られないと死んでしまうかのように。

でも、待てよ。

確かに「誰かに認められていない」と存在確認がしにくくて苦しい。

けれど、その「誰か」って、誰なの?
そして、自分の「何を」認められたいの?


人間社会では「能力」であろう。



じゃあ、「能力」って何? 財力、権力、学力、IQ、EQ、体力、仕事の技術力、美貌、センス、思考力、共感力、コミュニケーション能力、日々生まれる「これからは〇〇力の時代だ!」とされる能力…。


それは、「現在の人間社会」を生き抜くための「能力」であり、それは暫時的なものに過ぎないのでは?  

「社会」が変われば、求められる「能力」も変化する。故に今のハイスペックが将来のハイスペックとは限らない。

無論、そんなに簡単に「社会」は変わらない。

故に求められる「能力」もそんなに簡単に変化はしないだろう。

だが、大元は赤ちゃんが存在をめいっぱい表現するために「ここにいるよ」と示すために泣くように「能力」ではなく、「存在」を認めて欲しかったはずだ。



よりハイスペックな「能力」だけが生き残る「社会」なら、より差別的で選民主義的な「社会」になるはずである。  

でも、そうなってないのは、人間がより「理性的」であるからでもある。

そして、実のところ、そんな固定した「能力」だけが生き残る社会は脆いことも私たちは知っている。否、脳ではなく身体が知っているのかもしれない。

次に来る大きな種の危機には固定化された概念でできた社会に於いてハイスペックとされる「能力」では生き延びられないかもしれない。その時にはこれまでの社会では見向きもされなかった「能力」が役立つかもしれない。

そういう意味では、「理性的」なだけではなく、何か根底的な意識?が背後にあり、それを感じ取っての行動かもしれない。

生命的な「揺らぎ」が大切なのは、遺伝子レベルで知っているのかもしれない。

だから「能力」ではなく、「存在」を認められるような「社会」を目指して私たちは動いているのかもしれない。

「能力」なんてなくても、「あなたはここにいて良いよ」とみんな言って欲しいのだ。

それでも「競争社会」がそれを否定する時もある。

「競争」が悪いとは言わない。人類の「能力」の開花や「能力」の拡張という意味では「競争」は有意義だ。

しかし「競争」に埋もれて差別的になっては人類は破滅に向かうだろう。それは、かつての「選民思想」が未だに人類に暗い影を落としているのを見るまでもなく明らかである。

「存在」をそのまま認められるように私たちは「理性」を働かせなくてはならない。時に「競争」に目がくらみ、「競争」というベールが目の前を見えなくしたとしても。

私たちはあまりにも「競争」に溺れすぎ、そして他人を蹴落とすために「理性」を使い過ぎてきた。暴力的な言葉や差別的な言葉、言葉だけでなく、態度も含めて、私たちのコミュニケーションは※ジャッカル語的である。

私たちの言葉を、コミュニケーションを※キリン語的にすることを一人ひとりが気がついて少しずつでも実行していけば、そのために理性を使えば、私たちは新たなコミュニケーション方法を手に入れ、うわべだけではない「存在」そのものを認められる本来的な「共生」に至るのかもしれない。



※いきなり「ジャッカル語」とか「キリン語」とかいうと何のことかわからないかもしれない。実は、最近、私はマーシャル・B・ローゼンバーグさんの『NVC(非暴力的コミュニケーション)』という考え方に惹かれて、彼の本で学んだ。彼のそのコミュニケーション方法をより、簡潔にマニュアル的にまとめたものにkokoこと丹羽順子さんの著書『NVC 非暴力コミュニケーションワークブック: 親と子どもが心でつながる「キリン語」の子育て』がある。ジャッカル語、キリン語という表現はそこから拝借した。

この著書は、NVCを実践するうえでより効果的に力を発揮するだろう。もちろん、子育てだけではなく、あらゆる人間関係のコミュニケーションにも使える。

コミュニケーションだけでなく、自分の「承認欲求」やそれが叶わなくても「自己卑下」に至らずに済む「自己受容的」な在り方も学べる。

もちろん大元のローゼンバーグさんの著書もより深くNVCの世界を知るのに有意義だが、長い分、読みきれず断念してしまうかもしれない。

より手軽に入るためにkokoさんの本から入るもよし。ローゼンバーグさんの著書をより実践に落とし込みやすくするためにkokoさんの本を活用するもよし、である。

お勧めします。

長くなったので、「ジャッカル語」や「キリン語」については、またの機会に記事にできればと思います。最近、気になっていろいろ読み漁ったコミュニケーション方法の本、特に「聞き方」については、この「NVC」の考え方が私にはもっともしっくりときました。

参考文献:

マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版』日本経済新聞出版 2012.6

koko 丹羽順子『NVC 非暴力コミュニケーションワークブック: 親と子どもが心でつながる「キリン語」の子育て』小学館 2024.4