何か「完璧な存在」を目指して、努力を重ねさせられる。
学校という競争社会に投げ込まれた時から、常に「上を見よ」と洗脳されてきた。
まんまと騙され、俺はまんまと努力を重ねた。
結果、人間が「完璧」になど、なれるはずもなく努力は空回りし、理想と現実に引き裂かれ、俺は俺を獲得できずに今に至った。
そもそも、「俺の獲得」って何だ?
そんなもの、獲得する以前から、存在してるじゃないか。
ただ、そこに在る。
「ただ、そこに在る」ことだけで、許されない社会の要請によって、私は私を見失った。
「完璧」を目指すのは何故だ?
「完璧」な人間が、多数存在すれば、この世は「幸福」で満たされるのか?
人類は豊かで、生き延びられるのか?
否、おそらく、そんな世界は長続きしない。
「完璧」に近い人間がひしめき合う「世界」は、ひどく窮屈だ。
人類すべてが「完璧」に至れば、世界は「平和」になるのか?
毛頭、凡人の私に分かる術もない。
ただ、そこに至るまでに、おそらくは多大な命が失われることだけは肌でビンビンと感じる。
ならば、私にできることは、おそらくは「完璧」を目指さないことだ。
不完全な人間同士が、不完全な人生の「ちょっとしたすれ違い」で互いに「何か役に立つ」ことだ。
無論、「ちょっとしたすれ違い」は、互いを傷つけ合うことも、その先に恨み合うことの“きっかけ”にもなろう。
だが、それでも、今の私にできることといったら、「ちょっとしたすれ違い」に賭けて、他人とのその関わりが誰かを「ちょっとだけ、幸せにする」ことがあることを信じて進むことしかない。
「信じる」という言葉は嫌だったけど、「ちょっとしたすれ違い」の先に「ちょっとした幸福」を紡ぐことくらいなら、信じてもいいかな?
「幸福を目指そう」なんて意図しなくてもいい。ただ、その偶発的に生まれる「ちょっとしたすれ違い」を生み出し続け、それが「ちょっとした幸福」を紡ぎ続けることに賭けて、人生を歩むこと、それくらいしか私たちにはできない。
人類は、これからも「完璧」を目指して、歩みを止めないだろう。
将来、「完璧なAI」が誕生し、人類を凌駕し、どんな形になろうとも人類を「幸福」に導くやもしれない。
映画『MATRIX』のように人類が全員、眠らされていたとしても。
今も『MATRIX』の世界の外にいると誰が証明できよう?
もう、何度目の「世界」を私たちは生かされているのかも分からない。
けれど、そんな「壮大な何か」を考えて何になる?
私たちに、いや、今ここにいる、あなたに、私に、できることは、たった1つじゃないか。
ただ「生きること」。
そして、偶然が私たちを「すれ違」わせ、その「ちょっとしたすれ違い」によって、偶発的に誰かを「幸せにする」こと。
人間の意志なんて、その大きな流れにほんのちょっと影響を与えるものに過ぎない。
その影響も前に向かってるのか、後退してるのかさえも、私たちには分からないほどにしか、影響を与えない。
もう、何度目の「世界」だとしても、私たちにできることは、ただの偶然に身を委ねる程度のものでしかない。
意思を与えられ、意志することを使命とする人間は、その世界の偶発性にほんのちょっと「流れ」を与える程度のものに過ぎない。
だから、「完璧」でなくていい。
今、この瞬間をただ、寿命尽きるまで「生き抜くこと」が、最大の人類への貢献なんじゃないかな。
これは、人間が「意志」しなくてよいと言ってるんじゃないよ。
「意志」も含めて、大きな「流れ」の中にある。
そんな偶然性の中にある「ちょっとしたすれ違い」を繰り返していくことが、私たち人間の使命なんじゃないかと思うに至ったのであります。