田んぼ
薄い陽射しが
淡い影を北へ伸ばす
朝の道。
そよぐもののない
空っぽになった
田んぼの広がる
寒々とした景色が、
ここらじゃ
子どもの頃から
季節の風物詩。
その昔と比べれば
道や建物は増えたし
田んぼは減った。
3歳の頃、
近所でいちばん高い
ブロック塀に登って
見渡してみても、
田んぼの
向こう側にある家は
見えないぐらい
遠くにあった。
広い田んぼの中を
うねうねと横たわる
葦の茂った川は
ゆったりと流れ、
あちこちに
高瀬舟が沈んでいて、
びっしりと生えた
深緑の川藻が
せせらぎに
ゆらいでいた。
時が流れて
いま、その風景は
すっかり変わって
しまっている。
35年まえ、
というのが
どれだけ
昔といえるのか
わからない。
もう決して
戻れない事だけに、
とても
遠くのように
思えもするけれど、
この心の中だけなら
そんなに離れて
いないような
気もする。
稲刈りの終わった
静かな田んぼを
ぼんやりと
目に写しながら
ふり返った
35年前の
田んぼ風景の中には
子どもたちが
たくさんいた。
あの頃は
みんな
田んぼで遊んでいた。
ザリガニの巣穴に
腕を肩まで突っ込んで
バケツ一杯集めたり、
稲刈り後に
束ねて三叉にして
立ててある藁を
悪の手先に見たてて
戦って
全部倒したり、
田んぼサッカーは
田植えの時にできた
足形の穴や稲株で
ボールがどこにいくか
わからないし、
ぼんやり走ってたら
すぐ足を
ひねるから
ちょっと危険で
難易度が高い。
田んぼゴルフや
たこあげ、
紙ヒコーキも
飛ばした。
畦道で
鬼ごっこしたり、
まいにち
稲株を抜いて
回った事もあった。
田んぼいち面に咲く
レンゲの花に
埋もれると、
ちょっと冷たくて
気持ちよくて、
その季節が
いちばん好きだった。
もちろん
田んぼで遊んでると
農家の人に
怒られたりする。
でも
どこ吹く風。
みんな
きょうはあっち、
ダメならこっちで
いつも
遊んでいた。
いまは静かな
にぎやかな田んぼ。
淡い影を北へ伸ばす
朝の道。
そよぐもののない
空っぽになった
田んぼの広がる
寒々とした景色が、
ここらじゃ
子どもの頃から
季節の風物詩。
その昔と比べれば
道や建物は増えたし
田んぼは減った。
3歳の頃、
近所でいちばん高い
ブロック塀に登って
見渡してみても、
田んぼの
向こう側にある家は
見えないぐらい
遠くにあった。
広い田んぼの中を
うねうねと横たわる
葦の茂った川は
ゆったりと流れ、
あちこちに
高瀬舟が沈んでいて、
びっしりと生えた
深緑の川藻が
せせらぎに
ゆらいでいた。
時が流れて
いま、その風景は
すっかり変わって
しまっている。
35年まえ、
というのが
どれだけ
昔といえるのか
わからない。
もう決して
戻れない事だけに、
とても
遠くのように
思えもするけれど、
この心の中だけなら
そんなに離れて
いないような
気もする。
稲刈りの終わった
静かな田んぼを
ぼんやりと
目に写しながら
ふり返った
35年前の
田んぼ風景の中には
子どもたちが
たくさんいた。
あの頃は
みんな
田んぼで遊んでいた。
ザリガニの巣穴に
腕を肩まで突っ込んで
バケツ一杯集めたり、
稲刈り後に
束ねて三叉にして
立ててある藁を
悪の手先に見たてて
戦って
全部倒したり、
田んぼサッカーは
田植えの時にできた
足形の穴や稲株で
ボールがどこにいくか
わからないし、
ぼんやり走ってたら
すぐ足を
ひねるから
ちょっと危険で
難易度が高い。
田んぼゴルフや
たこあげ、
紙ヒコーキも
飛ばした。
畦道で
鬼ごっこしたり、
まいにち
稲株を抜いて
回った事もあった。
田んぼいち面に咲く
レンゲの花に
埋もれると、
ちょっと冷たくて
気持ちよくて、
その季節が
いちばん好きだった。
もちろん
田んぼで遊んでると
農家の人に
怒られたりする。
でも
どこ吹く風。
みんな
きょうはあっち、
ダメならこっちで
いつも
遊んでいた。
いまは静かな
にぎやかな田んぼ。
ジンマシン?
右の足首、
くるぶしの下あたりに
赤いブツブツが出て
かゆい。
最初は、
なんか虫刺されかと
思ってたけど
なんかちがうみたい。
こんな場所に
ブツブツが出て
かゆくなるのは
はじめて。
なんだろう?
なぜだろう?
と考えていると
ゆうべも一昨日も
夕飯のおかずは
サバだったのを
思い出した。
そして
最初にブツブツが
出たのは
一昨日の夜だった。
たぶん
サバが原因のような
気がした。
まだ
プレーンしか
食べてなくて、
これから
みりん焼きや
ミソサバも
食べたかったのに、
残念です。
ジンマシンて
子どもの頃、
かっこいいと
思っていた。
ジン・マシンとか
音の響きが
かっこよく
聞こえていたんでしょね。
くるぶしの下あたりに
赤いブツブツが出て
かゆい。
最初は、
なんか虫刺されかと
思ってたけど
なんかちがうみたい。
こんな場所に
ブツブツが出て
かゆくなるのは
はじめて。
なんだろう?
なぜだろう?
と考えていると
ゆうべも一昨日も
夕飯のおかずは
サバだったのを
思い出した。
そして
最初にブツブツが
出たのは
一昨日の夜だった。
たぶん
サバが原因のような
気がした。
まだ
プレーンしか
食べてなくて、
これから
みりん焼きや
ミソサバも
食べたかったのに、
残念です。
ジンマシンて
子どもの頃、
かっこいいと
思っていた。
ジン・マシンとか
音の響きが
かっこよく
聞こえていたんでしょね。
明るい宇宙

去年の春に描いた
水彩画です。
絵筆を使うのは
小学校以来の事でした。
絵の内容は
哲学的ですが
要約しますと、
私たちが暮らしている
この宇宙には
知恵が
充満しています。
その知恵、
科学も数学も物理学も
哲学にしても、
この世に人間など
ひとりもいなくても
存在しています。
どんな知識も、
どのような発見も、
この宇宙に
はじめからあるものを
注目して見ている
だけなのです。
私たちは現在、
それら宇宙の叡智を
場面に応じて
引用したり
利用している
だけでしかありません。
技術や知識を
伝える為の情報量は
数年前とですら
比較にならないほど
日々急激に
増え続けていますが、
だからといって
いまの人類と
昔の人類を比べて
どれくらい
賢くなったと
言えるでしょう。
どのような叡智も
人類全体の底上げには
由来しないのです。
未だに
その叡智の発見が
なされて
いないだけで
いつかは見つかり、
その時こそ
人類は生まれ変われる
と考えることも
できますが、
大切なのは
叡智の存在ではなく
その真実性です。
もしも人間が
無人島で
ひとりぼっちで
育ったとしても、
その心は
生まれながらにして
賢者であり、
それが
誰であろうとも
知る限りの世界に
多くの疑問を持ち、
その世界を
充分に上回る
多くの知識を
必ず持っている
ことでしょう。
宇宙では
私たちは誰でも
まったく等しい
存在なのです。
宇宙に
ビッグバンなど
なかったかも
知れません。
人類がサルから
進化した歴史など
ないかも
知れません。
遠い彼方の銀河には
何億年もの
歴史を積んだ
人類がいて、
それが私たちの
祖先かも知れません。
その祖先たちは、
人類を無知のまま
放置しておくと
どのような事が
おこるのか
この太陽系で
実験して
見ているのかも
知れません。
私たちが
祖先たちと同じように
宇宙の叡智を
ひとつ、ひとつと
発見してゆくのを
観察しているのかも
知れません。
私たちよりも
永い歴史を持つ
祖先たちにも
なし得なかった
発明が生まれるのを
待っているのかも
知れません。
宇宙の始まりとは
私たちが
見たり聞いたりして
理解できる事では
ないかも知れませんが
私たちは
誰しも常に
そこへと向かって
歩み続けているのです。