小泉純一郎(2) またもや「財政構造改革」 | 保守と日傘と夏みかん

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ポスト森を、橋本元首相、麻生太郎氏、亀井静香氏と争った小泉首相は、総裁選の最中、「橋本首相だったら大して変わらない。私だったら劇的に変わる」と言い続けた。
橋本改革の失敗を踏まえた発言と思われたが、小泉改革は、焼直しといってよいほど橋本改革にそっくりだった。

政権について最初の所信表明演説において(平成13年5月)、小泉政権は、「国債発行30兆円以下」「公共事業の見直し、削減」など、財政構造改革を強く打ち出した。
かねて大蔵族として知られる小泉首相は、財務省と二人三脚で、財政構造改革に邁進する。すなわち緊縮財政と増税である。

森政権は、意図せざる緊縮財政であったかもしれないが、小泉政権は、はっきりと「財政構造改革」を宣言した。橋本元首相が「間違っていた」と反省の弁を述べた財政構造改革だが、小泉首相の耳には届かなかったのであろう。

小泉首相が、所信表明演説で語った長岡藩の「米百俵」の逸話は、マスコミが飛びついて、緊縮財政を美談に変身させた。
幕末、窮乏する長岡藩に、分家の三根山藩から米百俵が贈られるが、小林虎三郎は藩士に配らず、売却して学校を建てる資金とした。「百俵は食べてしまえば一日、二日のことだが、人を育てれば1万俵の値打ちになる」と。

小泉首相は、改革の痛みを我慢せよ、と国民を諭す意味で用いたが、長岡藩は将来のための投資を行ったので、藩財政の節約のために領民に痛みを強いたわけではない。意味を取り違えていると多くの人が指摘したものの、マスコミ人気にかき消された。
三根山藩も苦しい中からの支援であったし、建てた学校には領民の子の入学も許可されたという。そしてその後、小泉首相は「三位一体の改革」で教育費を削減するのである。

財政構造改革は、しぶとく何度でも現れる。そして、日本経済は、再び、三度、叩きのめされることになる。

小泉首相は、根っからの大蔵族とされている。
小泉首相が、最初の選挙に落選した後、福田赳夫元首相のもとで書生をしていたことは知られている。小泉氏があまりに何も勉強していないことを心配した福田元首相が、大蔵省に教育を委ね面倒を見てもらったとの話が伝わっている。長く大蔵委員会に所属し、大蔵省政務次官も務めた。小泉政権の誕生を、誰よりも喜んだのは財務省であったかもしれない。

平成14年度の予算は、公約を達成するために、特別会計などから隠れ借金を行い、無理やり公約の30兆円ちょうどに収めた。財務省との二人三脚ぶりがよくわかる。
経済状況がどうなるかもわからないのに、なぜ30兆円なのかの説明がまったくないことも、小泉改革を象徴していた。

しかし、その努力の甲斐なく、結果的に、35兆円近い国債を発行せねばならなくなった。緊縮財政のために税収が落ち込んで、予定どおりの税収を得られなかったためである。

野党に追及された小泉首相は、「そんな公約、守れなくてもたいしたことはない」と嘯いた。
これが森首相だったら、大変な騒ぎになっていたはずだが、マスコミは苦笑いするだけで、さして問題にはしなかった。

そして、翌平成15年度も、国債発行30兆円以下との公約は守れなかった。同じことが翌年も、その翌年も繰り返された。

ようやく平成18年、初めて国債発行を30兆円以下に収めることに成功したが、小泉改革の成果ではなかった。米国への輸出増大による景気回復のおかげであることは明白だった。税収入が増えたのである。

小泉首相をはじめ改革派の人々は、「景気対策を行っても経済は回復しないではないか」「効果のない経済対策をやっても仕方がない」「必要なのは改革だ」と主張する。
しかし、せっかくの景気対策の効果を、毎回毎回、ぶち壊しているのが、早すぎる財政改革なのである。経済が本格的に回復するまで待たずに、緊縮財政や増税を行うことが、再び経済を悪化させるからである。

平成2年、日本の税収は60兆円を超えていた。
しかし、バブル破裂後の不況や、経済対策として行われた減税などで10兆円以上の減収となる。平成10年、平成11年は40兆円台に落ち込んでしまう。直前に比べ、7兆円近い税収減は、橋本改革の影響である。

平成12年に50兆円台を取り戻したのは、小渕政権の経済対策の成果だったが、緊縮財政の森政権で、再び落ち込み、続く小泉政権ではさらに激減して、43兆円台を続けることになる。橋本政権を上回る税収の落ち込みを見せる。

橋本改革の失敗を見事に繰り返したのである。





『平成経済20年史』 紺谷典子