自国防衛を他国の手に委ねる「戦後日本」の異常性 | 保守と日傘と夏みかん

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ともかくも、日本にとっては、アメリカの助力を期待しなければならないこと自体が変則的な状況なのです。

むろん現状では日米安保体制は不可欠なのですが、そこから出発してしまえばどうにもなりません。
自国を守るのは、まず第一義的には自国の軍隊であって、最初から他国の軍隊をあてにすること自体が異常なことなのです。自力防衛がまずあって、それを補完するのが同盟なのです。
いくら日米に圧倒的な力の差があっても、原則的な考え方はそうなのです。これは当然のことであり、その当然の原則が成り立っていないのが戦後日本なのです。

この変則性を認識しておくことこそが大事なことといわねばなりません。変則性を認識したからといってどうにかなるものでもないではないか、といわれればその通りなのですが、そのことの異常性だけは認識しておかなければならないのです。

にもかかわらず、戦後の日本はいつの間にかアメリカ依存をしごく当然のこととしてしまい、民主主義だけではなく、平和の方も自動的に配給されるかに思いこんでしまいました。
自らの血を流さずに平和がそこにある、というのは尋常ではありません。国を守る、ということのリアリティをまったく失ってしまいました。

いうまでもなく、この変則性をもたらしたものは戦後の防衛体制であり、しかもそれは憲法からきていますから、まさに「国体(コンスティテューション)」なのです。

まず平和主義の憲法があり、それを補完するために国の安全保障をアメリカに委ねたのであり、平和憲法プラス日米安保体制が、戦後日本の防衛の基軸になっている。
いくら非武装、戦争放棄、平和主義ときれいなことをいっても、それを現実化しているのは米軍なのであって、米軍によって支えられた平和主義というとてつもない欺瞞にどっぷりとつかりこんでしまったのが戦後日本というほかないのです。

繰り返しますが、現状でこれを変えることは不可能です。
米軍がいなくなってしまって、非武装、戦争放棄だけがまるだしで残ってしまっては、衣服もつけず素っ裸で街中を歩くようなもので、それを世界に誇るなどといっては他国から呆れられるだけでしょう。現状で日米安保体制は不可欠です。けれどそのこと自体が異常なことなのです。

戦後日本はこの矛盾、ディレンマの上にのっている。このディレンマから逃れる道は、憲法改正と自主防衛体制をまずはつくる以外にありません。それが難しければこのディレンマを自覚しつつ引き受けるほかありません。

しかし、この矛盾の上にあぐらをかいて、戦後、日本人は平和愛好的になり戦争に巻き込まれずに幸せだった、などというとそれはとんでもないことなのです。

戦争が終わり、日本人は何よりも平和であることが幸福の条件だと考えました。あの悲惨な戦争の経験と記憶がそうさせたのはよくわかります。

けれど、アメリカの占領政策が終わり、サンフランシスコ講和条約からほぼ60年たって、未だに、米軍に保護された平和国家などという欺瞞を幸福だというわけにはいかないのです。

じっさいには、自国の防衛を他国の手に委ねざるをえない国民は幸福どころかとてつもなく不幸というべきではないでしょうか。

少なくとも、それが「常識」であり、「世界標準」ではないでしょうか。この異常性を異常性として認識できなくなった国民はさらに不幸というべきではないでしょうか。

「尖閣の問題」は、改めて「戦後日本」の特異性というものをわれわれの前に突きつけてきたのです。
歴史認識にせよ、平和憲法プラス安保条約にせよ、まさに「戦後日本」の基軸なのです。尖閣が露にしたことは、この「戦後日本」のもつ陥穽だったのです。

そして、尖閣に加えてロシアとの間に北方領土をめぐる軋轢が生じ、ここにもうひとつの懸案である、韓国との竹島問題を加えると、実は、戦後の日本の領土は、厳密にはまだ確定していない。

国境線が確定していないということは、潜在的にはいつでも戦争状態になりうるということです。
ここにまだ国交回復がなされていない北朝鮮を加えると、日本は、中国、ロシア、韓国、北朝鮮という隣国との間において潜在的には戦争状態でありうる、ということになってしまいます。にもかかわらず、自力でそれに対処できないとなれば、このような国民が幸福なはずはないではありませんか。





『反・幸福論』 佐伯啓思